博物館についてスケジュールカテゴリー別府温泉事典リンク集

大分県の温泉(1)

1.はじめに-温泉の定義-
2.大分県の温泉分布・源泉数・温度などの概要

大分県の温泉(2)

3.泉質について
3-1.鉱泉分析法指針による鉱泉の分類
3-2.物質濃度の表わし方
3-3.基本的な泉質の名付け方

大分県の温泉(3)

3-4.泉質の決め方の問題点

大分県の温泉(4)

4.大分県における近年の源泉分布と泉質分布
4-1.適応症による泉質の種類(10種類の泉質)
4-2.平成22年3月末現在における大分県の源泉分布
4-3.陰イオンに着目した大分県の泉質の分布
4-4.いくつかの特異な濃度

大分県の温泉(5)

5.温泉の生成メカニズム
5-1.熱源-火山性温泉と非火山性温泉-

大分県の温泉(6)

5-2.水源-岩漿水は存在するか-

大分県の温泉(7)

5-3.水(流体)の通路-土地は壊れているか-

大分県の温泉(8)

6.なぜ大分県には温泉が多いのか
6-1.熱源-火山分布とキュリー点深度-
6-2.水源-年平均降水量の分布-
6-3.水(流体)の通路-活断層の分布-
6-4.まとめ

大分県の温泉(9)

大分県温泉調査研究会会長
別府温泉地球博物館理事長

由 佐 悠 紀

7.温泉の開発と利用-概要と略史-

 本シリーズの第2章「大分県の温泉分布・源泉数・温度などの概要」(EPO平成22年新年号)において、2008(平成20)年3月末の源泉総数および温泉採取量(自噴量と動力揚湯量の合計)を挙げ、都道府県別に比較すると、いずれも全国第1位であることを記した。それから4年後の2012(平成24)年3月末における状況を表14に掲げるが、源泉総数と採取量はそれぞれ全国の16.2%および10.6%を占めており、全国1位を保っている。

 表14 2012(平成24)年3月末における源泉総数と温泉採取量(L/分)

 

源泉総数 自噴量 動力揚湯量 合計採取量

大分県

4,471  119,939  165,246  285,185 

全国

27,532  738,111  1,943,562  2,681,673 

大分県の割合:%

16.3  16.2  8.5  10.6 
 出典:大分県環境白書 平成24年版;環境省 平成23年度温泉利用状況(都道府県別)


 以上のように、大分県の温泉は登録商標「おんせん県おおいた」を標榜するに相応しい状況にあるが、ここに至るまでには、前号で述べたような豊富な温泉資源に裏づけられた、人びとの長い歳月にわたる温泉の開発と利用への行動・努力があった。今回は、大分県における温泉の開発と利用をたどってみる。
 (注:上記の商標は、平成25年11月6日付で登録された。)




7-1.豊後国風土記の記録

 中部九州の東側に位置する豊後国(中津市と宇佐市を除いた大分県の全域に相当)のあちこちに温泉地獄が存在することは、古くから知られていたらしい。最初の記録は8世紀前半に成立したとされる「豊後国風土記」に登場し、豊後国8郡中4郡に温泉(あるいは温泉と思われるもの)の記述がある。
 日田郡五馬山の温泉(天ヶ瀬温泉と思われる)は炊飯に使われた。もしかしたら、温泉(地獄)の熱を料理に使った初めての記録かもしれない。
 速見郡の赤温泉(別府;血の池地獄)の赤い泥は屋柱の塗料として利用された。ちなみに、赤色の発色成分は酸化鉄(赤鉄鉱)で、ベンガラと同じである。
 大分郡の酒水は痂癬(ハタケ)の治療に用いると記されている。この酒水は、由布市挾間町の高崎山寄りにあった鉱泉と思われるが、詳しいことは分からない。
 以下に、4郡の温泉に関する部分を、吉野 裕著「風土記(1969;平凡社[東洋文庫])」に基づいて紹介する。

【日田郡】

五馬山(いつまやま)

 天武天皇のみ世の戊寅の年(678年)に大きな地震があり、山や岡が裂けて崩れた。この山の一つの谷間が崩れ落ちて湯の泉がところどころに出た。湯の気が猛烈に熱く、ご飯を炊くと早く蒸れた。1ヶ処の湯の穴は井戸に似ていて口径1丈(約3m)余りで深さははかり知ることができない。水の色は濃い藍色で、ふだんは流れない。人の声をきくと、驚き怒って泥を奔騰させることは1丈余りもある。今、慍湯(いかりゆ)というのはこれである。

【直入郡】

球覃の郷(くたみのさと)

 ある天皇が行幸されたとき、食膳奉仕の人が御飲料の水として泉の水を汲ませると、オカミ(蛇または龍で、水の主として畏敬されていた)がいた。天皇は「きっと臭いにちがいない。汲んで使用させてはならぬぞ」と仰せられた。これによって、泉の名を臭泉(くさいずみ)といい、その名をとって村の名とした。球覃の郷と呼ぶのは訛りである。

球覃の峰(くたみのみね)

 この峰の頂上にはいつも火が燃えている。麓には数々の河がある。名を神の河という。また二つの湯の河がある。流れて神の河と会する。 (注:この峰は星生山~九重硫黄山のことと思われる。)

【大分郡】

酒水(さかみず)

 この水の源は郡の西の柏野の磐の中から出て、南をさして流れ下る。その色は酒のごとくで、水にはすこし酸味がある。これを使って痂癬を治療する。

【速見郡】

赤湯泉(あかゆ)

 この湯の穴は郡の西北の竃門山にある。周囲は15丈(約45m)余り、湯の色は赤くて泥がある。これを使って家屋の柱を塗ることができる。泥は流れて外に出てしまえば、変じて清水となり、東の方に下って流れる。それで赤湯泉という。

玖倍理湯の井(くべりゆのい)

 この湯の井は郡の西の河直山の東の岸にある。口径は1丈余りで湯の色は黒い。泥は普通は流れない。人がこっそり井のほとりに行って大声で叫ぶと。驚き鳴って湧きあがること2丈余りである。その湯気は猛烈に熱く、それに向かって近づくことができない。近辺の草木はすべて枯れしぼんでいる。それで慍湯(いかりゆ)という。土地の人の言葉では玖倍理湯の井という。
 (注:河直が訛って鉄輪[かんなわ]になったとも言われる。)




7-2.伊予国風土記が伝える「別府の温泉」とその効能

 日本三古湯とは「道後温泉(愛媛県)・有馬温泉(兵庫県)・白浜温泉(和歌山県)」を指すのが一般的であるが、中でも、古事記に記載されている道後温泉は、最古の温泉とされることが多いようである。ところが、愛媛県の古記録である伊予国風土記の記事は、これより古くから知られていた温泉があることを示唆している。その温泉とは「速見の湯」、すなわち「別府の湯」である。記事の概要は次のようである。

(日本の国づくりに励んでいた)大国主命と少彦名命が道後温泉辺りに差し掛かったとき、少彦名命が人事不省に陥った。大国主命は活かしたいと思い、大分の速見の湯を下樋(地下樋)で(海底を渡して)持ってきて少彦名命に浴びせたら蘇生した。

 この記事は温泉には医療的効能があること、また、そうした効能がある温泉として「速見の湯」が知られていたことを伝えている。そうならば、別府の湯は道後の湯より古くから開かれていたことになるが、どうであろう。

注)前枠内に記した大国主命と少彦名命の神話は有名であるが、最近、「二神の役は逆」との説が出されている。
石川理夫(2015):日本の「温泉神」の成立構造と特質,日本温泉地域学会第25回研究発表大会 発表要旨集,5-6.




7-3.地獄の災厄と恩恵(近代以前)

 古事記・日本書記・風土記等が編纂された後の温泉に関する記録はあまり多くないが、別府の地獄の記録などによれば、住民にとっての地獄は、一方では災厄を、他方では恩恵をもたらすという、相反する側面を持つ存在だったようである。

 (注)地獄とは、活火山や温泉地などの地熱地域で、高温の蒸気や熱湯が噴出して危険を感じる所をいう。もともとは天然のものであるが、現在では、掘削によって得られた噴気や沸騰泉も地獄と呼ばれることがある。
 江戸時代中期に出版された、絵図入りの百科事典と言われる「和漢三才図会」には、地獄のある場所(山)として、肥前(温泉-雲仙)・肥後(阿蘇)・駿河(富士)・信濃(浅間)・出羽(羽黒)・越中(立山)・越前(白山)・伊豆(箱根)・陸奥(焼山)と共に豊後(鶴見)が挙げられている。

 地獄めぐりで有名な別府の鉄輪には、鎌倉時代の中期、時宗の開祖・一遍上人が、地獄に難儀していた人々のために地獄を鎮めて蒸湯を開いたという伝承がある。すなわち、災厄を恩恵が受けられるものに変えた、と言える。
 以下に、主に明治時代以前の別府で記録された、災厄と恩恵の例をいくつか挙げる(入江,1995)。



【災厄の例】

地獄荒れ

鉄輪地区で、田畑のなかに熱湯や蒸気が噴出して荒地となった。

地獄の悪水

鉄輪地区の下流域では、溜池などに温泉が流入し、田畑に悪影響が出た。

地獄の悪風

鉄輪地区の山道で悪風が出て、通行の牛馬がしばしば死んだ。(硫化水素が吹き出ていたのであろう。)

地すべり

地獄地帯の傾斜地では、噴気や熱水の作用によって岩石類が粘土化して(温泉余土)脆弱になり、地すべりが発生することがある。明礬地区や観海寺地区では、地すべり跡地が見られる。実際に、昭和時代に両地区で地すべりが発生したことがある。


【恩恵の例】

地獄の噴気:

畳表の縦糸や舟の碇縄などに使われるイチビ(アオイ科の一年草)の皮を剥ぐに当たり、地獄の噴気で蒸した。

味噌の大豆を蒸すのに使われた。

蒸し料理に使われた。別府では「地獄蒸し」という。

蒸湯(蒸風呂):石室に蒸気を導いた浴場。別府では地獄の噴気を使った。


硫黄の採取:別府の伽藍岳(別府硫黄山)・鍋山、九重硫黄山などで、硫化水素を含む蒸気から硫黄が採取された。

(注)室町時代、幕府は遣明船を派遣して日明貿易を行った。主な輸出品は硫黄・銅などの鉱物、扇子、刀剣、漆器、屏風など、主な輸入品は明銭(永楽通宝)、生糸、織物、書物などであった。その11回目の9隻からなる船団には大友船があり(大友家15代当主親繁が派遣)、約54トンの硫黄が積まれていた。これは、他の8隻の平均積載量(約23トン)の2倍以上である。九重硫黄山・別府硫黄山を持つ豊後は、日本最大級の硫黄産地であった(参考:大分合同新聞、2013年10月28日(朝刊)「大友時代を生きた人びと」)。

明礬の生産:別府の明礬地区では、地獄の噴気と青粘土が反応して生じる「湯の花(鉄・アルミニウムなどの硫酸塩)」を採取し、精製して「明礬」を生産した。質量とも全国一の明礬生産地であったという。

エピソード
 20世紀の初頭・日露戦争の頃、英国の写真家ポンティングが別府と鉄輪を訪れ、別府では砂湯を体験し、鉄輪では2つの地獄(坊主地獄と海地獄と思われる)を見物して、地獄蒸しと蒸湯のことを記している。その後、ポンティングは、英国のスコット大佐が率いる2回目の南極探検(1910~12年)に写真掛として同行し、夕食後のレクチャーで、彼自身が撮影した沢山の写真のカラースライド(モノクロに彩色したのであろう)を見せて大変好評だったという。
 4人の隊員と共に南極点に向かい、その帰途、全員が遭難死したスコット大佐達も、別府や鉄輪の写真を見ていた可能性がある。




7-4.温泉の開発

 前節までに述べた事柄は、全て自然湧出の温泉・地獄に関わることであり、人間が自然に寄添うという、いわば受動的な温泉利用であった。ところが、明治時代に至り、まったく新しい観点からの温泉利用が始まった。能動的な温泉利用、すなわち、温泉開発である。
 これに先鞭をつけたのは、明治12(1879)年4月に別府の秋葉神社辺りで行われた、上総掘りによる深さ約4mの小口径の温泉井戸掘削である。その後、別府では温泉掘削が進み、明治末期頃には乱掘状態を呈したと言われる。なお、最初の上総掘りは、原型的なものだったと思われる。
 別府以外でも、温泉開発が進んだ。例えば、久大線が開通する以前、大正11(1922)年における由布院温泉の源泉95箇所のうち、34箇所は人工のものだったという記録がある(依田,1937)。
 時代は下がり、昭和30年代における大分県の温泉地として、服部安蔵著「温泉の指針(1959;廣川書店)」に、以下の諸温泉が紹介されている。

別府温泉郷(別府、観海寺、堀田、鉄輪、明礬、柴石、亀川;浜脇は名前だけ)・由布院・塚原・湯平・長湯・都野(七里田)・法華院・筋湯・星生・筌口・中野・寒ノ地獄・宝泉寺・壁湯・川底・天ヶ瀬・鷺来ガ迫

 服部の著書の出版後、高度経済成長が進行し始めた1960年頃から、全国的に温泉開発が本格化した。大分県においても、別府を中心として全県的に新規掘削が進み、九重町では地熱発電のための大口径の孔井(地熱井)が掘削された。
 加えて、昭和48年の第一次オイルショックを契機として、それまで鉱泉しか無かった大分市でも、深い掘削による非火山性温泉の開発が進んだ。1970年には大分市の源泉は5ヶ所であったが、2010年3月末には225ヶ所となった。2012年3月末は、さらに増えて227ヶ所の源泉がある。
 表15には、浴用・飲用に供された源泉について、開発が進行中の昭和45(1970)年3月末と、飽和状態近くまでになった平成22(2010)年3月末の状況を示す。1970年における利用源泉数3121であったが、2010年における利用源泉数は4152と約1000孔増加した。しかし、その内容は大きく異なり、1970年の動力泉数は自噴泉数をわずかに上回る程度であったのが、2010年には自噴泉数は6割程度にまで減少し、動力泉数は倍増して全源泉数の3/4を占めるまでになっている。また、この間に採取量は倍増したが、その約70%は動力揚湯によっている。
 参考のため、表14に掲げられている2012年のデータも付加した。2010年のデータと比べてかなりの幅で変化しているが、これは現状を参照して、資料が整理されたためであろう。いずれにしても、井戸数・採取量の両者共、動力泉が大きく上回っていることに変わりはない。

 表15 1970年および2010年における大分県の源泉の状況(いずれも3月末).
     浴用・飲用に供されたもののみ.
利用源泉数 自噴泉数 動力泉数 採取量(L/分) 未利用源泉
1970 3121 1494 1627 114,562 86
2010 4152 953 3199 226,170 433
2012 3589 821 2768 285,185 882
 2010年3月末の採取量内訳:自噴量69,879(L/分),動力揚湯量156,291(L/分).
 2012年3月末の採取量内訳:自噴量119,939(L/分),動力揚湯量165,246(L/分).
  出典:
    〔1970年〕大分県鉱泉誌1970年(大分県厚生部),
    〔2010年〕大分県環境白書 平成22年版,
    〔2012年〕大分県環境白書 平成24年版.



7-5.温泉の他目的利用

 大分県における温泉利用の特徴のひとつは、表16に掲げたように、かなりの数の源泉が浴用・飲用以外の目的に供されていることである。

 表16 大分県における浴用・飲用以外の源泉の状況(2012年3月末)
用途 源泉数 採取量(L/分)
農業園芸 84 4,574
養殖 23 2,364
暖房 12 682
湯の花 50 2,700
硫黄採取 6 169
飲料水原料 2 1,000
観覧 18 897
発電 89 62,902
合計 284 75,288
 出典:「大分県環境白書 平成24年版」より作成.

 別府の「湯の花製造・観覧(地獄めぐり)」はユニークで、湯の花製造は重要無形民俗文化財に指定され(平成18年3月)、これらが行われている明礬地区および鉄輪地区の一部は、「別府の湯けむり・温泉地景観」として国の重要文化的景観に選定された(平成24年9月)。
 また、5ヶ所の地熱発電所〔滝上・八丁原・大岳(以上、九重町;事業用)および杉乃井ホテル(別府市;自家用)・九重観光ホテル(九重町;自家用)〕の合計発電量(認可量)は約155MWと、全国総発電量約515MWの30%を占めている。

参考文献
  • 依田和四郎(1937):由布院温泉地帯の地温分布,地球物理,1.
  • 服部安蔵(1959):温泉の指針,廣川書店.
  • 入江秀利(1995):「江戸時代の」別府温泉史料集成,(有)サンエス.
  • 吉野 裕(1969):風土記,平凡社[東洋文庫].

(つづく)

「大分県環境保全協会会報 EPO 平成26年新年号(2014)」より

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