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「大国主命の大工事」
神代の昔、四国伊予に来られた少彦名命が卒倒されたとき、なげき悲しんだ大国主命は、海中に樋を通して速見の湯を引き、少彦名命に注ぎかけられたところ、生きかえられたと言う神話があります。これが道後温泉の由来とされているのですが、なんとも気宇壮大な話で、古代の人々の発想の豊かさには、驚かされてしまいます。速見の湯とは、もちろん、別府温泉のことです。
また、奈良時代に編まれた豊後国風土記には、赤湯泉(アカユ)玖倍理湯井(クベリユノイ)が紹介されています。赤湯泉は明らかに血の池地獄のことですし、玖倍理湯井は、鉄輪にあった間欠泉のようなものだったらしいのです。
このように別府温泉は、太古の昔から全国的に有名な温泉でした。現在でも、その規模、大きさ、豊富な湯量、泉質の種類の多さ、観光客や浴客の多さなど、あらゆる点で日本を代表する温泉地であることに変わりはありません。
温泉井戸を掘ったり、湯を汲み上げる技術が進歩したおかげで、私たちは、別府市のほとんどの地域で温泉を採ることができます。しかし、昔は、自然に湯が湧き出る温泉しか利用できませんでした。そのような温泉地の代表的なものが別府八湯といわれる場所だったのです。そのうち、羽室台高校のある別府北部地域では明礬(ミョウバン)・鉄輪(カンナワ)・柴石(シバセキ)・亀川(カメガワ)という四つの温泉地が知られ、山から海に向かって列をなすように並んでいます。
中でも山の手にある明礬と鉄輪は、湯けむりが激しく立ちのぼっていることから分かるように、温泉活動がもっとも盛んな場所です。しかし、その活動の様子は、いくらか違っています。
明礬では、地下深くから高温水が上昇してくる途中で沸騰して生じた蒸気が地下にたまっているので、井戸を掘ると蒸気だけが噴き出します。自然に湧き出している温泉水は、浅い地下水が蒸気で温められてできたものです。
鉄輪にも、地下の浅い所には蒸気がたまっていますが、深く掘ると高温の熱水が沸騰しながら噴出します。
それに対し、海岸に近い亀川にあるほとんどの温泉は、50~60度と、いくらか低温です。その泉質を調べると、明礬などで作られた浅い温泉水と、鉄輪で見られる深い所の熱水が混じり合い、さらに、地表からの浸透水で薄められてできたものであることが分かります。広い範囲にわたって温泉を採ることができるのは、山の手から海岸に向かって、このような温泉水が流れているからです。
そして、これらの温泉水は、そのほとんど全てが、山で囲まれた別府市域に降った雨水が地下に浸み込んで作られるものです。ですから、採取可能な温泉水量は決して無尽蔵ではありません。これからも、上手に温泉を使うためには、このことを考えておかなければならないのは言うまでもないことです。
- 1985.3.5 羽室台高校PTA広報「羽ばたき」4号より -
つづき・・・おおいたの温泉の顔2013から・・・
なぜそういう伝承があるのかを考えたら、2万年前は大氷河期で海面は今より百数十メートル低かった。そうすると瀬戸内海は大きな谷で、入口が浅い別府湾は湖です。その岸辺のところどころに温泉があって伊予の方向に並んでいたんじゃないかと、いろいろ想像したくなるのですが、なにしろ証拠がない。(笑)
さらにつづき・・・
「温泉の平和と戦争」東西温泉文化の深層(彩流社)の著者 石川理夫氏によると卒倒したのは少彦名命ではなく大穴持命(大国主命)で、通説は風土記の誤読であると日本書紀も引きながら温泉神「少彦名命」論を展開している。
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