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地球のはなし  別府温泉地球博物館 代表・館長 由佐悠紀

No.32
「朝日長者伝説のこと」

 大分県の代表的な伝説「朝日長者伝説」のもとの話は、8世紀前半に成立したとされる『豊後国風土記』に載っており、『風土記』(平凡社:東洋文庫)所載の現代語訳で読むことができる。

 今さら書くには及ばないかもしれないが、その内容を簡単に記そう。登場するのは農民だけで、長者はいない。

 「広い土地は肥沃で、昔は多くの水田が開かれ、収穫は有り余るほどであった。富み奢り、餅を作って弓の的としたら、白い鳥と化して南方に飛んで行った。その年のうちに農民は死に絶えて、水田は荒れはて、それ以降、水田には適さなくなった。いまの田野という地名の由来は、こうである」

 その場所は、千町無田(現 九重町)とされ、現在は豊かな水田地域である。そうなったのは、開拓に当った人々の努力はもちろんとして、品種や肥料の改良を始めとする農業技術の進歩が与かっているのであろう。

 私が気になるのは、この地が標高約900メートルの高地ということである。気温は海岸地域より6度ほど低く、年平均気温は10度前後である。

 稲はもともと寒冷地には不向きの作物であったというから、この温度条件では、古代の飯田高原に収量の大きい水田が展開していたとは考えにくい。

 風土記の記載は、なにを意味するのだろうか?

 朝日長者伝説について私が知りたいのは、この伝説のもととなった「田野(九重町)の事件」はどのような状況下で起こりえたか、ということである。

 8世紀前半に書かれた『豊後国風土記』から事件を要約すれば、次のようになる。

 広く肥沃な水田では、稲がよく実った。鳥が南に飛んでいって、稲作ができなくなった。水田は荒野と化した。

 風土記は公的な文書だから、事実に基づいた事柄、あるいは確かな伝承が収録されたはずである。8世紀前半、田野の地は荒野だったにもかかわらず、公の文書に収録せざるを得ないほど強烈に、ずっと大昔の事件の顛末が伝えられていたのだろう。

 この伝承の核心は、「鳥が南に飛んでいって、稲作ができなくなった」である。私はそれを、気候変化(寒冷化)のせいではないかと、直感した。


 しかし、このような解釈は既に誰かがしているような気がする。それで、ネットで検索してみた。驚いたことに、この7月発行の「農業と環境」誌に、関連した考察が発表されていたのである。ただし、土壌肥料学の観点からで、渡り鳥が、乱獲されたため、飛来しなくなったことが原因ではないかとしている。リン酸肥料(鳥の糞に含まれる)が欠乏し、稲作が消滅したのではないかというのである。

 面白い。

 前回「鳥が南に飛んでいって、稲作ができなくなった」に対する土壌肥料学的な解釈を紹介したが、私の解釈は「寒さ」である。鳥とは渡り鳥。それが南に行ったというのは、酷い寒さを意味しているのではないか。

 縄文時代は温暖だった。最も暖かかったのは6000年ほど前。年平均気温は今より1~2度高かったらしい。

 海水面は高く、内陸深く海が進入していた。「縄文海進」という。大分市では、明磧辺りまで海であった。その後、気温は下降・上昇を繰り返しながら、長期的には低温へ向かい、海は退いていった。

 このような状況のもと、およそ2500年前、水田稲作が伝来した。その頃は海進の余波があって、稲が成長する夏に高温で日射の強い九州では、塩分が残る海岸域より、田野(九重町)のような高地部の方が稲作に適していたのかもしれない。

 ひとつのグラフがある。屋久杉の年輪から抽出された、2世紀半ばから19世紀末頃までの寒暖の記録である。この間、寒冷に向かう中、7世紀の初めに、突発的な鋭い低温が記録されているのである。

 この約1800年の間でも際立っていて、江戸時代末頃の天明や天保の大飢饉の時より低温だったようだ。
 聖徳太子が摂政を務めていた頃に当る。これから約100年後に、豊後国風土記が成った。朝日長者伝説の核心は、「鳥が南に飛んでいって、稲作ができなくなった」である。この事件が記された8世紀前半より約100年前、7世紀初め頃の未曾有の低温が屋久杉の年輪に残っていることを、前回述べた。この分野で高名なリビー女史が分析し、1976年に発表された。データの信頼度は高い。

 それほどの低温なら、文献に残っているかもしれない。

 県立図書館で『日本飢饉史(中島陽一郎著)』を繰ったら、その記事にいきなり出あった。悲惨な飢饉だったようだ。ちなみに聖徳太子は、その直前に亡くなっている。

 「推古31年(西暦623年)霖雨大水、天下飢饉す。34年正月桃李花咲き、3月霜ふり、6月雪ふり、2月より7月に至るまで雨多く、天下大いに飢う。35年五穀みのらず」

 以下は、私の推測である。

 九重の田野も、大寒波に襲われた。標高900メートルの高地だから、なおさら酷かったであろう。低温・長雨・日照不足のため稲は実らず、寒さの中、渡り鳥は南方に逃げ、人々は餓死した。

 『豊後国風土記』に記されているように、一村消滅の事態に陥ったのではなかろうか。

 ではなぜ、冷害ではなく奇怪な事件として記録されたのか、という疑問が生じる。ともかく、この伝説には多方面から検討されるべき内容が含まれているようである。


※「朝日長者伝説と土壌肥料学」 独立行政法人農業環境技術研究所
 http://www.naro.affrc.go.jp/archive/niaes/magazine/099/mgzn09908.html

※「朝日長者伝説と七不思議」  くじゅうエイドステーション  http://www.kujuaid.net/contents/asahi-tyoujya-nanahusigi.html

  - 「大分合同新聞夕刊」  2008年8-12月 -



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