No.33
「富士見通り」
この辺りは全然変わらんなあというのが、ときたま訪ねてくる友人たちの挨拶であった。この辺りとは、私たちの研究所がある油屋熊八公園付近のことである(注1)。私が別府に来てから、もう20年以上が過ぎてしまったが、そのほとんどの期間、ここから天満にかけての富士見通りは、静かな通りであった。
研究所に続いて、緑丘高校、芸術短大、自衛隊と、若い人たちの集まりが並んでいたのだから、それなりににぎやかで騒々しかったはずである。そう言えば、さまざまな楽器の音がしていたし、バレーボールの練習の掛け声や、自衛隊の隊員たちが駆け足の行進をしながら大声をあげていたことを思い出す。それなのに、私の記憶の底にあるのは、静寂さなのである。
家内はその静かな通りを大仏さん(注2)の近くまで下りて行っては、赤ん坊と野菜なんぞを一緒くたに積み込んだ乳母車を押し上げてきた。夏は夏で、冬は冬で、それぞれにつらい作業だったことは確かである。しかし、週末などに手伝う程度でしかなかった私には、ちょっとした楽しみであった。お世辞にも趣のある通りとは言えなかったけれども、あの静けさは懐かしくもある。
そのうち、子供が門衛に敬礼する自衛隊員のまねをすることを覚え、学校に通うようになると、全然変わらなかった富士見通り一帯が、突如として大変化のきざしを見せはじめたのである。
芸短が、緑丘高が、そして自衛隊が抜けていったかと思うと、その空白地を侵すかのように、海岸から徐々に広い道がはい上がり、ついには、油屋公園にまで達して、さらに上昇を続けながら、市役所をはじめとする大型施設とともに、騒々しい車の音を運んできた。暑苦しいので窓を開けてこの原稿を書いているのだが、もう真夜中だというのに、車の音はいっかなやみそうにない。
都市化とは、掠めるごとく激しいものか。その激しさに、はや私の記憶は風化しつつあるようである。道幅を広げて美しく近代的になった富士見通りを歩くとき、あの狭い、いくらか薄汚れてはいたが、静かだったころのたたずまいを思い出そうとしても、具体的なことはほとんど思い浮かばなくなってしまっている。
(注1) 油屋公園は、富士見通りと流川通りが出会う三角地(グローバルタワー付近)にあった。シンボルの御影石の大玉などは、別府公園の西門に移設されている。
(注2) 別府大仏は、1928(昭和3)年、天満町に建立された。鉄筋コンクリート製の阿弥陀如来像で、東洋一と言われるほど大きく、観光名物であったが、老朽化が著しいため、1989(平成元)年に解体された。
私は、中学3年のとき、修学旅行で来た記憶がある。
(追記) 結婚を機に、私たちは本籍地を研究所の地番に移した。その後、富士見通りは研究所側(北側)が拡幅され、土地整理で分筆されたため、元々の地番は富士見通りの一部だけに残ることになった。だから、私たちの本籍地は富士見通りである。
- 「大分合同新聞」 1987年7月(大分合同新聞)-
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