No.43
「関羽の塩」
「いまだ参上つかまつりませぬ」というのは、祖母がよくした歌舞伎の声色の中で、ただ1つ私が覚えているものである。
明治20年頃の生まれで、両親を早く亡くしたというようないろんな事情のために、1日も学校に通ったことのない人であった。
10歳のころから大阪の遠縁の家で女中奉公みたいなことをして、最後にはその家から嫁入りさせてもらったと言っていたので、おそらく薮入りかなにかのときに、芝居見物をするぐらいしか楽しみはなかったのだろうと思う。
冒頭の声色は忠臣蔵の一節で、小学生であった私は何回となく聞かされた。場面は浅野内匠頭切腹の場、この台詞の主は片岡源五右衛門か誰かで、聞いているのは内匠頭、いまだ参上つかまつらぬのは大石内蔵助その人である。
歌舞伎のことであるから、登場人物の名前はもちろんこのままではなく、祖母は歌舞伎に出てくる名前で話したのだが、内蔵助が由良之助であることしか覚えていない。調べてみればよいのだが、あしからず。
祖母の語り口によれば、内匠頭は内蔵助にじきじきに仇討ちを命じてからでないと、死ぬに死ねないのである。結局、内蔵助はかろうじて間に合う。
しかし、話をすることは出来ず、主従はお互いの意志を表情で伝え合う。実にドラマチックであるが、歌舞伎の筋立てが本当にこういう風なのかどうかは知らない。祖母は物語りのうまい人で、狐に化かされたというようなそらごとでも、聞いているうちに本当のことだと信じたくなるほどだったから、もしかしたら一部は彼女の創作かもしれない。
忠臣蔵という物語が、その中にちりばめられている数多くのエピソードとともに、私たち日本人の心を捉えつづけてきたのはたしかであり、多くの小説家や研究者が、さまざまな視点からこの事件の断面を切り取って見せてくれている。その断面のひとつが、浅野と吉良の間に生じた塩をめぐる争いであった。
播州赤穂の浅野の塩造りは質量とも圧倒的に日本一だったので、吉良方が良い塩の造り方の教えを乞うたのに、浅野方がそっけなかったのが遠因だったというのである。
事は私が思っているほど単純ではないのだろうが、この種の問題に対する自然科学者の認識なんて そんな程度だと思って、あまりめくじらを立てないでいただきたい。
でも、ちょっと変じゃないか。海水の成分は世界中どこでもほとんど同じなのだから、それから出来る塩だってそんなに違わないのではないだろうか。それに、18世紀後半の日本はいろんな技術が進歩していたと言われているのに、塩造りだけはそれほどむつかしいものだったのかしらん、と思うのだ。
というのは、私は子供のとき、塩造りの手伝いをしたことがあるからである。戦後すぐの頃は、ほんとに何も無く塩さえも不足していたから、海辺の村ではほんの一時期だが、塩を造ったことがあったのである。
方法は海水を汲んできて大きな釜で煮詰めるという、きわめて簡単なものであった。それでも白っぽい塩がとれたし、大人たちはちょっと工夫して、不完全ながら精製までしていたように思う。
ただし、この塩造りはすぐに無くなってしまった。たぶん闇だったので禁止されたのであろうが、おそらく効率も低かったに違いない。そのうちに日本人が使う塩の大部分が輸入の岩塩に取って代わられ、かつての伝統的な塩田風景そのものが姿を消していったことからみても、海水からの製塩はあまり効率の良いものではないのだろう。
中国略図
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中国が南極観測を始めることになって、その準備のため、しきりに情報を集めていた。私たちバンダ湖グループが北京に招かれたのは、いま指折り数えてみると、もう10年ほども前になるのだから、はやそんなに経ったのかと大いにびっくりしている。そのとき、中国の塩湖を見せてもらうことになった。
塩湖とは、読んで字のごとく塩分を含んでいる塩辛い湖で、中国の内陸部にはたくさんある。
7月の猛暑の中、北京駅を出発したのが、私の中国国内の初めての汽車の旅であった。汽車のことを中国語では火車と言い、汽車は自動車である。ややこしい。ルートは、北京-石家庄-太原-運城であった。このうち太原-運城の線は、黄河の支流・汾水に沿っている。この流域から、中国とその文明が発展してきた。伝説の聖王、尭・舜・禹たちの都もこの汾水に沿ってあったと言われる。
汾水 |
その運城に塩湖がある。着いてみて驚いた。塩湖に違いはないのだが、長さ30キロメートル、幅5キロメートルのほぼ全域が、塩田になっているのである。
説明を聞いて、さらに驚いた。この塩田の歴史は四千年も前、尭・舜・禹の時代にまで、あるいはもっと以前、黄帝にまでも遡れるというのだ。
それかあらぬか、湖の畔には黄帝が発見したと伝えられる小さな泉があり、言い伝えによれば、この水を使って湖の底の泥の中に含まれている塩分を溶かし出し、水分を蒸発させて最初の塩がとられたのだそうだ。
以来いままで、まったく同じ方法で製塩が続けられてきたというのだから、驚きを通り越してあきれてしまう。
運城の塩湖解池 |
汾水流域が中国文明の発生の地でありえた理由のひとつは、この塩湖があったからに違いないと、想像をたくましくしたいのだが、どうであろう。
そして、これをみていると、塩田法による塩造りの技術はとっくに出来上がっていたらしいことが分かる。とすると、浅野と吉良の争いの塩の造り方云々は、実はあまり大きな問題ではなかったということになるが…まあ、どうでもいいか。
中国では、古くから塩は帝室の専売品であり重要な財源であったから、この塩湖は常にその時代時代の権力者の管理下にあった筈である。いまでもぐるりと湖を取り巻いている土塁は、その名残りなのであろう。それほどまでに管理を厳重にしていたということは、抜け駆けをする者が後を絶たなかったことを意味する。
池神廟(製塩の神:池・太陽・風を祀る) |
解池を取巻く土塁(土塀) |
三国志の英雄・関羽は、この地方の出身である。だから、運城の郊外には、もっとも由緒正しく立派だと地元の人が自慢している関帝廟がある。身の丈九尺の偉丈夫・若き日の雲長関羽は、故郷を捨てて劉備のもとに身を寄せねばならなかった。その理由を、陳舜臣氏は、塩の密売でも露見して出奔せざるを得なかったのではないかと述べている。
もしそうだとすれば、人格高潔神の如き関羽にして…もしかしたら、あの土塁を乗り越えて塩を盗んだのかもしれぬと、なんとなく親しみをおぼえるではないか。もっとも、この話は三国志には出てこない。
運城の塩湖と製塩が正式の史書に登場するのは、時代が下がって唐になってからだそうである。
池神廟(製塩の神:池・太陽・風を祀る) |
- 「月刊アドバンス大分」 1989年10月-
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