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地球のはなし  別府温泉地球博物館 代表・館長 由佐悠紀

No.46
「不凍液の魚」

 ギリシャ時代から18世紀まで、地球の南方には地上の楽園があるという伝説がヨーロッパの人たちの間に流布していた。天動説を集大成したプトレマイオスがこの説に対して数学による論理的裏付けをしたので、説得力があったらしい。18世紀の後半、有名な航海家キャプテン・クックをニュージーランドからさらに南へと駆り立てたのは、この楽園伝説であった。

 結局、彼らはきびしい低温と暴風に行く手を阻まれて、南の地は人間の生きてゆけない不毛の世界であると結論せざるを得なかった。人々が2000年の長きにわたって持ち続けてきた夢は、この大航海によってもろくも崩れてしまったわけである。しかし、それから100年もしないうちに、ある人たちは再び南へ向かった。アザラシや鯨の狩人である。もちろんヨーロッパやアメリカの人々であった。

 近年、捕鯨禁止運動が大きな力を持ち、鯨を食うという食文化の国日本は悪役そのものの観があるが、鯨を殺すのはかわいそうというだけの理由でそれを叫んでいる人たちの先輩が、7つの海をまたにかけて油のために乱獲した、という歴史があるのを忘れてはなるまい。
 彼らは、それが産業として成り立ったから捕獲したのであって、日本民族におけるような長期にわたる文化ゆえではなかった。それが証拠に、鯨油の需要が減って採算に合わなくなると、捕鯨を止めてしまったではないか。鯨保護のために止めたのではないのである。鯨だけに限らず、生き物の保護は大いに結構なことだ。しかし、今の捕鯨禁止の動きは、異文化の存在そのものを否定するところから出てきていると思われるふしがあって、困ってしまう。
 ただし、その先輩たちのかつての捕鯨活動が、皮肉にも私たちに『白鯨』という大いなる文学の宝を残してくれたことに対しては感謝の意を表せずばなるまい。なんだか話が変な具合になった。

 不毛の地と考えられた南極で近代的な科学観測が始められてから、もう30年以上が過ぎた。大陸移動説を支持する証拠や地球の気候のメカニズムに関する資料など、多くの重要な知見が蓄積されつつあるが、加えて、その南極でも人間は生きていけるという、思いもかけない成果も得られた。どうやら、人間という動物は、環境の変化に対してかなりの順応性を持っているらしいことが分かったのである。

 そのひとつの例として、こんな話を聞いたことがある。今から20年以上も前のこと、日本隊が昭和基地から南極点へのルートを拓くべく、雪上車を連ねて大陸奥地を旅行したとき、ソ連の基地に立ち寄った。その日は、穏やかな雲ひとつ無い晴天だったが、ソ連の隊員たちは、零下十数度の低温にもかかわらず、シャツ1枚の姿になって、今日は暖かいなどと言いながら、大氷原の上でサッカーかなにかの球技に興じていたそうである。その基地のあるところは、真冬には零下60度以下にまで気温が下がる。そんな厳寒を経験すると、零下10度などというのはあるていど平気になるらしいのである。

 私自身も、2月頃ドライバレーから帰ってきたとき、しばらくの間はほとんど寒さを感じなかった記憶がある。もっとも、1~2週間のうちにもとに戻ってしまい、いつもの冬のように、朝のふとんのぬくもりから抜け出すのをつらく思うようになりはしたが。
 極地で確認された順応性の重要な部分が、近代人が獲得したさまざまな技術-防寒具・暖房・食事・輸送通信手段-に支えられていることは確かだと思うのであるが、基本的には、人類が哺乳類・恒温動物であることに依っていて、それがきわめて優れた順応性を発揮するのであろう。
 時々、新聞やテレビにエルニーニョという言葉が現われることがある。南米ペルー沖辺りの海水温が著しく上昇する現象をこう呼ぶのであるが、この現象が激しいと豆腐の値段が上がるのだそうだ。風が吹けば桶屋が儲かるはだしの判じ物めいていて、にわかには信じがたいが、大変有名な話である。
 ペルーは日本と1、2を争う水産国である。その漁獲量の大部分はカタクチイワシが占める。そのペルー沖のカタクチイワシは、エルニーニョに出会うと大量に死んでしまうので、当然漁獲量は激減する。

 カタクチイワシ(しゃれて言えばアンチョビー)は、オイルサーディン、それよりむしろ、その稚魚をゆでて干しただしの素・いりこの原料である。つまり、私たち日本人にとっては貴重な食品であるが、世界的に見ると、食用になるのはごく一部で、ほとんどは家畜の飼料になるのだそうである。
 エルニーニョが発生すると、世界的に家畜の飼料が不足する。その代替の主力となるのは、蛋白質に富む大豆である。だから、大豆の需要が増えて価格が高騰し、それが私たちの豆腐にはねかえる、といった図式なのだそうだ。かくて、家畜と日本人との間には大豆をめぐる摩擦があるという結論が導かれそうであるが、これは冗談として、なぜエルニーニョが発生するのかという大問題があるのだが、ここでの話題はそのことではなくて、自身で体温を維持することのできない変温動物の魚は、かくも環境、とくに温度にその生命の存亡を左右されている、ということである。

 南極の氷原の下の温度は、零下2度くらいである。そんな低温の中では、恒温動物でしかも羽毛や脂肪の乗った厚い皮膚に保護された鯨・アザラシ・ペンギンなどはともかく、魚など生きていけそうもないのに、ちゃんと生きている。
 代表的なものは、ライギョダマシという俗称のあるスズキ科の大きい魚で、成魚は体長が1.5メートル、体重は50キロもある。
 あるアメリカの若者が、これを不思議に思って研究した。今では南極の魚類の権威であるが、研究を始めたのは、大学院の学生のときであった。何年もかけて得た結論は、意外なものであった。この魚の体液には、不凍液の主成分であるグリコールの一種が多量に含まれていたのである。生命の仕組みはなんと奥深いものかと思う。そしてまた、若い人の発想は、だから素晴らしいとも思う。  たぶん、味はどうかと気になる向きもあるであろう。研究用に釣られた一片を馳走してもらったことがある。グリコールを含んだ身はほのかに甘みを帯び、なかでも目の下はマグロのトロをはるかにしのいだ。と思っているのだが、久しぶりの刺身だったせいもあるかもしれない。


南極ロス海マクマード入江の海氷の氷原,厚さ数メートル.
この下に多様な生物が生息している.
亀裂の周辺に散らばっている黒い点々はウェッデルアザラシ.

ライギョダマシなどの魚を釣るため,海氷に空けた穴に現れたウェッデルアザラシ.
水面に浮いているのは大型のプランクトン.

ライギョダマシ.大きいものは,体長150cm,体重50kgにも達する.

【昭和基地管理棟に飾られているライギョダマシの魚拓】
 https://kachimai.jp/feature/antarctica/article.php?id=134
【マルハニチロ「日本から消えつつある旨い魚」】
 https://umito.maruha-nichiro.co.jp/article21/

  - 1989年12月-



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