No.65
歩行考
白と黒のコントラストが強い画面いっぱいに、舌を長く出して、黒っぽい犬があえいでいる。これは、黒沢 明の名作「野良犬」の有名な冒頭のシーンだが、ただそれだけで、太陽が照りつける夏の日のうだるような昼下がりを鮮烈に印象づけていた。これには理屈があって、犬の体には汗腺が無いので、舌から発汗させるのが、犬に与えられた体温調節法なのだそうだ。
犬がそうなら人間にだって効果があるに違いないと、口を開け、のろのろと富士見通りを上がる。誰が見てもみっともいいとは言えないが、通るのは車とバイクばかりで、カンカン照りの中を歩いている人はほとんど居ないのだから、構うことはない。こんな馬鹿げたことを試したり、夕方のビールの1杯のうまさを想像したり、ときには真面目に計算中の数式を考えながら、人の目を気にすることもなく気ままに歩けるというのは、私の性に合っていて好きだ。
ある日、そんなふうに良い気分になって歩いていたら、その良い気分は、道行く人の姿が少ないためだということに気がついたのである。それなのに、車はひっきりなしに走っている。そんな光景を見ているうちに、突然、見知らぬ世界に放り出されたように感じて、なんだか薄気味悪くなった。
ほんとに歩く人が少なくなったように思う。激しく行き交う車の流れは、社会がめまぐるしく動き、人々の行動範囲も格段に広がっていることを実感させる。効率の良さを追求しようとする現代の合理精神が、歩くというまだるっこい行為を締め出していくのは、当然かもしれない。そして、ついでに、まったく関係のなかった者同士が、たまたま路上で出会い、道をたずね合い、ぶっつかりそうになって、ふと、袖すり合うも…などと、ちょっとした思いをはせたりする機会を遠くへと追いやりつつあるのも、確かなようだ。これこそが現代なのであろうか。
こんなことが気になるのは、とうとう私も中年(いやな言葉だ)の域に達した証拠かもしれぬ。
国道10号線との交差点から見た「富士見通り」
手前(東)から奥(西)に向かう約2kmの直線道路
突き当りのビルが立ち並ぶ高地一帯が観海寺温泉
雲を被った山は鶴見岳(1375m)
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ー1986.9.30 大分合同新聞 別府版ー
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