2022.9.26
No.77「高野川堤の桜」
京都の川といえば、鴨川である。その鴨川をさかのぼると、御所の東あたりでY字型に分かれる。西に行けば賀茂川、東は高野川。
京都時代の私の下宿は、この2つの川の合流点と北の下鴨神社に挟まれた三角地の、いわば重心に当る場所にあった。だから、毎日、高野川を渡って大学に通った。こんなふうに書くと、勉強三昧の学生生活だったようにみえるが、そうであったとは言い切れそうにない。ほかにすることがないままに、ただ、なんとなく通っていたような気がする。
この4月の初め、京都での学会に出席し、久し振りで高野川の畔を歩いた。予約したホテルが、たまたまそのそばにあったからである。
その左岸の堤の桜はやや満開を過ぎ、陽光の中に桜吹雪が舞っていた。春らんまんそのものである。ところが、しっくりしない気分を感じる。
いぶかりながらしばらく歩いているうちに、思い当たることがあった。高野川に対する私のイメージの中には、桜色がまるで無いのだ。木々はすでに立派で、私が京都を離れたのちに植えられた若木であるはずはない。
あのころ、桜に関心を寄せる余裕などなかったのか、あるいは、つかのまの満開に巡り合うことがなかったのか、はたまた、そうしたことへの感受性がもともと欠落しているのか。
1週間後、また、ここを歩く機会があった。はや葉桜になっていた。その緑は、確かに記憶の中にあった。
ー1992.4.29大分合同新聞 別府版ー
★温泉マイスターnoteにも掲載しています
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