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HOMEフィールド博物館温泉マイスター・ハイキングレポート>2018.05.12「地獄ハイキング 観海寺・別府温泉コース・レポート」甲斐心也

温泉マイスター・ハイキングレポート

地獄+極楽ハイキング観海寺~別府温泉コース ガイド・レポート

シニア・マイスター 甲斐 心也

別府温泉地球博物館主催の地獄ハイキング2018年度の第一回は、平成30年5月12日(土)、温泉マイスター限定で観海寺~別府コースでの開催でした。
 この日は五月晴れの好天に恵まれ、陽だまりでは汗ばむほどでしたが、街路樹の下では時折、爽やかな風が吹き抜け、初夏を満喫するハイキングになりました。
 14:30に富士見通りの京都大学地球熱学研究施設に集合し、竹村先生をはじめ参加者7名で元気に出発しました!!
 今回は昨年来の宿題だった、「地獄+極楽ハイキング」にすべく、ハイキングコースを踏破した後、竹瓦温泉で汗を流し、蕎麦屋で乾杯という趣向です。



京大地球熱学研究施設

 スタート地点の京都大学地球熱学研究施設は、1923(大正13)年に設立されました。施設のHPには、「地球上で最大規模の火山・地熱温泉活動域のひとつである中部九州地域を巨大な実験装置とみなして,野外観測・調査や物質科学的・理論的解析を行い,熱現象の総合解析を推進しています.さらに,これらの結果を全地球的規模で展開する同様の研究結果と合わせて,地殻表層からマントル・核にいたる熱構造と熱現象の解析を進め,総合科学としての『地球熱学』の構築を目指しています。」とその研究目的が記されています。



京大地球熱学研究施設

 この建物は1922(大正12)年に竣工した煉瓦造り、地上2階半、地下1階、煉瓦タイル張り、建築面積510㎡の建物で、文化遺産オンラインHPによれば、「中央部に塔屋を持つ煉瓦造の研究施設。平面はL字型である。設計は京大施設部の永瀬狂三。煉瓦の赤と石貼りの白との対照や、イオニア式を模した柱頭飾りを持つ特徴的な外観で、別府湾を見おろすシンボルとして親しまれている。」とあり、1997(平成9)年に登録有形文化財に指定されました。
 明治44年に九州財界の大物の出資により、現麻生副総理の曽祖父麻生太吉が社長となり、別府温泉回遊鉄道㈱という会社が設立されました。流川通→山の手(鶴見園)→鉄輪→亀川→旧国道→別府港桟橋を結ぶ回遊電車を走らせようという壮大な計画が持ち上がり、本社建築用地としてここが選ばれたそうです。計画は途中で頓挫し、その後、京都大学に譲渡され、現在の建物が建築されたという事です。

 一行は富士見通りを横断し、山の手町の住宅街を進みます。大正時代末期に高級住宅地として分譲された山水苑はこの界隈で、かつては紅紫迎賓館と呼ばれた旧麻生別荘がここにありました。また、現「複合商業施設山の手ライフガーデン」の場所には、富士紡績の創業者和田豊治氏の別荘「致楽荘」がありました。昭和13年に中山悦治氏に所有権が移り中山別荘となり、別府を代表する別荘建築といわれました。
 別府市街地は西から東方向に下っている事は誰も知っていますが、この辺り地形は北から南方向にもかなりの下りであることが判ります。つまり、朝見川断層方面が低地になっているのです。



本光寺

 途中、日蓮宗本光寺で「別府石」の石垣を見学しました。「別府石」とは、鶴見岳をはじめとする火山から、火砕流や土石流として流れ出してきた角閃石安山岩の事で、別府では古くから石垣や石塀の材料として使ってきました。灰色と赤色の2つの色合いがありますが、赤は溶岩が冷え固まる過程で、酸化したためこの色になったという事です。

 更に進むと門構えの立派にお宅があり、ここの石垣にも別府石が使われていますが、一部はレキ岩が混じっています。このレキ岩は大野川流域で産するもので、わざわざ遠くから持ってきたものなのか、その来歴は謎のままです。また、9万年前の阿蘇山大噴火の際の火砕流が冷え固まってできた阿蘇溶結凝灰岩で作られた石垣のお宅もありました。この石は比較的柔らかく、加工が容易なため、切石として積まれている事も多い様です。



雲泉寺泉源

 朝見川にかかる「いちのいで橋」に到着しました。ここからのけぞりそうな急坂を上った先に、「いちのいで会館」という仕出し屋があります。ここは時間の経過とともに湯の色がコバルトブルーから青白濁に変わる、ナトリウム-塩化物泉の「青湯」で有名で、多くの温泉マニアの心をとらえています。
 橋の対岸には別府市温泉給湯事業の雲泉寺貯湯タンクがあります。湧き水を貯めた堀田沈殿槽を起点に、井田位泉源や前八幡泉源で加熱された噴気造成泉が、ここの泉源でも再加熱され、朝見や浜脇地区の共同浴場や公共機関に送られています。

 別府ラクテンチ下の乙原集落には、別府金山の坑道跡があります。別府金山とは、「日本の産金王」といわれた木村久太郎が、1903(明治36)年に乙原山で採掘を始めたもので、最盛期の1913(大正2)年には金20kg(現在価値で約1億円)、銀36kg(現在価値で約240万円)を産出しました。しかし、堀り進むうちに高温の温泉が噴き出し、杭夫が火傷することが度重なり、1916(大正5)年に操縦中止に追い込まれました。



金山坑道跡

 金山採掘のために広大な土地を所有していた木村は、山上までケーブルカーを敷設するアイデアを思いつき、1929(昭和4)年に「遊園地ラクテンチ」を開園し、多くの観光客を呼ぶことになりました。
 坑道跡の見学をしていたら、すぐ前のお宅の方から声がかかり、この奥にももう一つ坑口があるとの事で、ご案内していただきました。穴は土砂で半分ほど埋もれていて、中に入る事は出来ませんでしたが、貴重な体験ができました。


熱水変質岩

 原町のある民家の石垣は、別府金山の坑道から出てきたと思われる、「バリ」と呼ばれる熱水変質岩が使われていて、石英の結晶が観察できました。 

 ここからは流川通をまっすぐに下って行きます。途中でJR日豊線の下をくぐりますが、この辺りは海抜10.5mで、津波が来たら線路の先まで逃げろと言われるのは、海抜10m以上の所に避難せよという事の様です。

 流川4丁目の交差点に「伊能忠敬測量史跡」の記念碑が建っています。伊能忠敬は1810(文化7)年2月に来別し、ここにあった高札場に江戸日本橋より263里(1052km)という測量標を設置しました。



竹瓦温泉

 ここから商店街を通って竹瓦温泉に向かいました。竹瓦温泉は1878(明治12)年に創設された別府温泉を象徴する市営温泉です。現在の建物は1938(昭和13)年に建設されたもので、文化遺産オンラインHPによれば、「中央は入母屋造の2階建で,1階が休憩所や脱衣所,2階が床・棚付の畳敷大広間になる。浴室は東側に突出する平屋建で,西側の寄棟造の平屋建は砂風呂になる。変化に富んだ外観や正面の唐破風玄関など,重厚かつ豪華なつくりで,温泉街の象徴的な存在である。」と説明されています。


竹瓦温泉

 明治21年に神戸でコレラが流行した時、波止場に船が入ると、警察官と役場の衛生係が消毒箱で衣類を消毒し、人は竹瓦温泉に入れて防疫に努めたらしく、竹瓦温泉は汗がすぐ乾く泉質である事から、別名「乾液泉」と言われるのですが、この当時は悪名高く「検疫泉」と呼ばれていたそうです。



波止場神社

 竹瓦温泉の裏手に波止場神社があります。1878(明治3)年、初代日田県知事の松方正義により別府港が築かれ、波止場の鎮守としてこの神社がお祀りされました。  「神様、仏様、稲尾様」と言われた西鉄ライオンズの稲尾和久投手は、神社のすぐ横の路地で生まれ、漁師だった父親を助けて舟を漕いだり、神社の境内でキャッチボールをしたりして、幼年期を過ごしました。
   また、この辺りの砂浜には温泉が湧いており、どこを掘っても天然の砂湯になりました。貝原益軒の「豊国紀行」には、「別府の町中に川あり、東に流る、この川も温泉湧出、その下流に朝夕、里の男女浴す、また海中にも温泉いづ、潮干ぬれば浴するもの多し、潮湯なれば殊に病を治す」と江戸末期の様子が記されています。
 そして海岸近くの低湿地帯では、畳表の原料の七島イやショウガが栽培されていました。砂浜は別府湾でとれるイリコと七島イを干す筵が一面に並んでいたそうです。



北浜海岸

 今日のゴールの北浜海岸に到着しました。かつての砂浜の姿はなく、高潮対策の堤防が海と陸を隔てています。別府で唯一残された自然の海岸が、亀川の上人が浜で、ここに市営の海浜砂湯がありますが、これも他所からの引き湯で砂を温める人工的なものです。長く続く白い砂浜と、そこで砂湯を楽しむ人々の姿を思い浮かべて、失くしてしまったものが愛おしくてなりません。

 2時間予定を少しオーバーして、全コースを踏破しました。いつもならこれで解散ですが、今日は極楽コースが待っています。竹瓦温泉で汗を流し、蕎麦屋「にはち」で乾杯、そば三昧のコースを堪能しました。

 「地獄ハイキング」2018年度前半は、6月9日6月30日を予定しています、多くの方々のご参加をお待ちしています。ありがとうございました。
 また、次回の「地獄+極楽ハイキング」は10月以降に開催する予定で、日程は別府温泉地球博物館のHPで告知します。こちらもよろしくお願いします。



 

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