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地獄ハイキング 「浜脇~上人ヶ浜コース」 参加レポートシニア・マイスター 甲斐 心也
NPO法人別府温泉地球博物館主催の地獄ハイキング2018年度の秋の第3回は、平成30年10月28日(日)、浜脇~上人ヶ浜コースでの開催でした。
この日は秋晴れの好天に恵まれ、時折爽やかな秋風の吹く絶好のハイキング日和でした。
このコースは昨年10/29の回のために用意された新コースですが、台風の接近で中止となり、2年越しで実現しました。
スタート地点の東別府駅は、1911(明治44)年、豊州鉄道の浜脇停車場として開業し、1934(昭和9)年に東別府駅に改称されました。趣ある木造駅舎が残っており、市指定登録有形文化財になっています。近年では、新垣結衣・三浦春馬主演の映画「恋空」のロケ地になった事で話題になりました。
少し歩いて浜脇温泉前の広場に到着しました。入口近くの石造りのアーチは、建て替え前の浜脇温泉の玄関で、床のタイルで当時の浴槽の位置や大きさが偲べるようになっています。ちなみに浜脇高等温泉は湯治客向けであったためぬるめの湯で、浜脇温泉は地元民向けに熱めになっていたそうです。
朝見川の河口近くに架かる橋の上にきました。満潮に近い時間だったらしく、ゆったりとした流れが見られました。ここで竹村先生から「浜脇温泉の源泉はどうなってるの?」との質問が飛び出しました。「市営給湯線のラクテンチ下の雲泉寺タンクからの引き湯です。」と答えると、「純粋な浜脇源泉はないのと?」と聞かれ、「すぐそこの新玉旅館と二幸荘の2つの旅館だけが浜脇源泉です。」とお答えしました。このところ、地獄ハイキングでは突然の質問やガイドの要請が飛び出すので、油断がなりません。
浜脇温泉から別府温泉に入ってきました。両地区の境は松原公園だという事ですが、厳密な区分けはない様です。
流川4丁目の交差点に伊能忠敬測量碑が建っています。流川通りはかつての別府のメインストリートで、不夜城といわれたほどで、旅館や土産物屋・多くの商店が立ち並んでいました。
アーケード街を抜けて竹瓦温泉に着きました。明治時代はこの辺りは砂浜の海岸で、浜からは温泉が湧いていました。そこに粗末な湯小屋を建て、半割の竹で屋根を葺いたのが竹瓦温泉の始まりです。現在の建物は1938(昭和13)年に完成したもので、2004(平成16)年に国の登録有形文化財に指定されました。
竹瓦温泉の裏手に波止場神社があります。1878(明治3)年初代日田県知事の松方正義により別府港が築かれ、波止場の鎮守としてこの神社がお祀りされました。
国道10号線を渡って北浜公園に着きました。この辺りは海抜2.5mで、昔から高潮の被害を受けてきた地域です。ヨット艇庫の向こうに旧別府港の石造りの桟橋が見えます。
北浜ホテル街の北には、的ヶ浜公園と人工砂浜のスパビーチが広がっています。スパビーチの砂は花崗岩組成の白砂ですが、別府には花崗岩はなく、本来は角閃石安山岩の黒い砂であるべきとのお話がありました。
スパビーチの先には市営温泉の北浜テルマスがあり、水着で泳げる温泉プールがあります。その先の若草漁港を過ぎると、境川の河口に出ました。境川は別府扇状地を形作った火砕流や土石流が流れ下ったあとで、本来は水無川です。
的ヶ浜、弓ヶ浜、餅ヶ浜と3つのゆかしい名の海岸が続いていますが、これは平安末期の武将、鎮西八郎源為朝伝説に由来します。剛弓の使い手として知られた為朝が的ヶ浜に30間ごとに的を置き、馬上から射抜いたことから的ヶ浜といわれ、男が5~7人がかりで弓を張ったという弓ヶ浜、その弓を立てかけた弓かけの松、好物の餅を食べたという餅ヶ浜の地名が今でも残っています。
別府国際観光港に着きました。1958年に旧別府港からここへ機能が移転されました。広別汽船の広島航路で使用していた第一埠頭は使用休止中。第2埠頭には宇和島運輸の八幡浜航路、第3埠頭には関西汽船の神戸・大阪航路のサンフラワー号が就航しています。
春木川河口に架かる橋を渡ると、第4埠頭に着きます。ここは2011年3月供用開始し、大型クルーズ客船の発着増加を目指し、大型船が接岸できる10mの岸壁を有しています。また、客船が寄港するのに欠かせない税関・入国管理・検疫(CIQ)の手続きをする臨時事務所を開設されています。
この海岸の高潮対策は特別なもので、自然の海岸を残すため、平成24年度より潜堤の工事に着手し、平成25年9月に整備が完了しました。つまり、海岸から沖合200mに潜提を作り、高潮を防止するとともに、漁礁や増殖場の役目を期待するものです。そもそも、この海岸はサザエやナマコ、アイナメ、カサゴ、メバルなどの多様な魚種が生息しており、よい漁場となっています。また、潜提上にはワカメやヒジキなどの海藻が茂り、漁獲の対象となっています。
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