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地獄じごく 地獄じごく ※この項目では、地獄の概要について記述しています。別府の地獄については「別府の地獄」をご覧ください。
地獄とは、仏説でいう六道の最下層にある、生前悪いことをした者が死後に落ちて行って大変な苦痛にさいなまれる所とされています。日本人は、それを現世のものになぞらえて、活火山や温泉地などの地熱地域で(地熱の項を参照)、高温の蒸気や熱湯が噴出して危険を感じる所を地獄と呼んできました。もともとは天然のものでしたが、現在では、掘削によって得られた噴気や沸騰泉も地獄と呼ばれることがあります。
○高温水が噴出する泉や井戸;沸騰泉や間欠泉。 以上のものとは別に、鳥地獄とか虫地獄という名の地獄もあります。温度は必ずしも高くないのですが、近づいた鳥や虫が死ぬという、生命の危険さによって名付けられた地獄です。おそらく、毒性のある硫化水素や、窒息させる炭酸ガスが吹き出しているものと思われます。 「和漢三才図会」には、地獄の具体例として、豊後の赤江地獄が紹介されています。「血の池地獄」のことでしょう。別府の地獄は、江戸時代においても、旅人の興味の対象だったようで、当時の紀行文にその様子が記録されています。別府の地獄については、項を改めて、別府の地獄と別府の地獄リストに記します。 (由佐悠紀)
入江秀利(1995):「江戸時代の」別府温泉史料集成、(有)サンエス. 地獄めぐりじごくめぐり --- 執筆中です。もうしばらくお待ちくださいm(--)m--- 別府の地獄リストべっぷのじごくりすと ※この項目では、文献に登場する地獄または地獄と思われるものをリストアップしています。
〔 〕は、別府八湯に準じた地域名。
現存する名称はそのまま、( )は現在の名称や地獄のタイプ(いずれも推測)。 豊後国風土記(8世紀前半)〔柴石地域〕赤湯泉(血の池地獄;湯池、赤色は酸化鉄の沈殿物) 貝原益軒(元禄7年;1694):豊国紀行〔明礬・鉄輪地域〕鬼山地獄(湯池)・海地獄(湯池)・円内坊地獄(坊主地獄) 寺島良安(正徳2年;1712):和漢三才図会〔柴石地域〕赤江地獄(血の池地獄) 古川古松軒(天明3年;1783):西遊雑記〔明礬・鉄輪地域〕 〔柴石地域〕血の池地獄 脇蘭室(文化年間;1818~29):菡海漁談〔明礬・鉄輪地域〕海地獄・紺屋地獄・鬼山地獄・園内坊地獄(坊主地獄) 蝶亭起友(弘化2年;1845):温泉めぐり〔明礬・鉄輪地域〕紺屋地獄・坊主地獄・海地獄・地獄原(鉄輪の地域名;温泉と噴気) 直江雄八郎(弘化2年;1845):鶴見七湯廼記〔明礬・鉄輪地域〕 以上は主に「入江秀利(1995):「江戸時代の」別府温泉史料集成、(有)サンエス」および
川崎幾三郎(明治21年;1888):鉄輪蒸窖及両温泉分析並医治効用〔鉄輪地域〕 松田繁(明治38年;1905):別府町・濱脇町鉱泉に関する取調書類〔明礬・鉄輪地域〕海地獄・坊主地獄・地獄原 鈴木政達(昭和8年;1933):別府附近の地史と温泉脈、別府市誌(昭和8年版)〔明礬・鉄輪地域〕 昭和13年(1938)発行:大別府温泉観光鳥瞰図〔明礬・鉄輪地域〕 湯原浩三(昭和39年;1964):
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◎ | 観海寺地区で、昭和18(1943)年と昭和28(1953)年の2回にわたって、地すべりが発生した。小口径の横井戸を何本も掘削して水抜きを行った結果、停止した。 |
◎ | 明礬地区で、昭和41年に地すべりが発生した。小口径の横井戸を何本も掘削して水抜きを行った結果、停止した。 |
イチビ[キリアサ(桐麻)、ボウマ(莔麻)]とは、アオイ科の一年草で、皮は畳表の縦糸や舟の碇縄などに使われる。その皮を剥ぐのに、地獄の噴気で蒸すという工程があった。豊後特産の豊後表(七島藺の畳表、七島筵とも言う)の生産が盛んになり、地獄の使用権をめぐる争いが起こったという記録がある。
また、地獄の噴気は、味噌の大豆を蒸すのにも使われた。
別府の野湯として知られるようになった「鍋山」は、硫化水素を含む蒸気が吹き出す噴気地で、江戸時代中頃から断続的に、硫黄が採取された。「海内にして最上の佳品」だったと言う(鶴見七湯廼記)。
金属と硫酸の化合物である明礬は、染色剤・防水剤・消火剤・皮なめし剤・沈殿剤などとして昔から広く使われ、近世に至ってますます需要が増えた。そこで、江戸幕府は専売品にしたが、別府の明礬地域は、質量とも全国一の明礬生産地であった。現在も作られている名産の「湯の花」を特殊な方法で処理して、明礬を生産したのである。しかし、明治以降、コスト高や海外からの輸入品などに押されて、地獄での明礬生産は衰えた。
いろいろな食材を蒸気で蒸すという料理法があるが、別府では、地獄の蒸気を使った蒸し料理が古くから行われていた。たとえば、「鶴見七湯廼記」(1845)には、詳しいレシピが記載されている。その後、多くの人が地獄蒸しのことを記録に残した。明治30年代の末ごろ別府を訪れたイギリスの写真家 ポンティング が、鉄輪では(地獄の)蒸気が料理に使われていると書き残している。
現在では、鉄輪地域の地獄蒸しが全国的に有名で、地獄蒸しをメニューに挙げている旅館・ホテルもある。そのほか、別府市などが設けた「地獄釜」を使って、持ち込んだ食材を地獄蒸しにすることができる。
なお、豊後国風土記には、日田郡の五馬山(いつまやま:天ヶ瀬温泉と思われる)で湧き出す高温の湯を使うとご飯が早く炊けるという意味の記事がある。温泉(地獄)を使った料理の最初の記事ではないだろうか。
石室に蒸気を導いた浴場を、石風呂あるいは蒸湯・蒸風呂と言う。現在のサウナである。別府では、一遍上人の事跡にあるように、その蒸気を地獄から引いた。貝原益軒の「豊国紀行」(1694)をはじめとする文書に、医療に用いられたことが記され、明治21(1888)年に出版された小冊子では「蒸窖(じょうこう)」と呼ばれて、入浴の方法および効能が詳述されている。ポンティングも蒸湯のことを記録し、「このトルコ風の風呂は、リウマチの治療にたいへん良く効くと言われている」と述べている。
現在、一遍上人ゆかりの地に、「鉄輪むし湯」が開設されている。
入江秀利(2001):天領横灘ものがたり-別府の江戸時代、おおくま書店.
沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉(2008):「豊後国風土記・肥前国風土記」、山川出版社.
川崎幾三郎(1888):鉄輪蒸窖及両温泉分析並医治効用.(訂:入江秀利)
由佐悠紀(2007):英国人写真家ポンティングが訪れた明治末の別府と鉄輪、ゆけむり散歩、57.
別府市(2003):別府市誌2003年度版.
じごくむし
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