人力と孟宗竹の弾力を動力源にして、先端に鉄製のノミを付けた竹ヒゴで地層を突き崩しながら掘り進む、小口径の井戸掘り技術「上総掘り」で温泉井を掘ることを、別府では湯突きと言いました。出来上がった井戸は「穿湯」とも言いましたが、「突湯」というのが一般的だったようです。この湯突きは、明治・大正・昭和と長く受け継がれ、別府の温泉開発を支えました。湯突きによる井戸数は2000以上、最も深いのは360mもあったそうです。
しかし、太平洋戦争後、機械力による近代的な井戸掘削技術が導入されると、またたく間に取って代わられ、昭和28年頃を最後として、湯突きは姿を消してしまいました。
しかし、幸なことに、実物の4分の1の湯突き櫓の模型が別府市美術館に展示されています。美術館の隣には、人気の高い「別府海浜砂湯」があります。
(
由佐悠紀)