由布院温泉
ゆふいんおんせん
本項では、主に地学的見地から、由布院温泉を紹介します。
【概要】
全国的に有名で人気の高い由布院温泉(大分県由布市湯布院町)は、別府湾から島原半島(長崎県)に至る“別府-島原地溝帯”の東部に位置し、より局所的には、大温泉地・別府温泉から西方へ活火山・鶴見火山群(最高峰:鶴見岳1375m)を越え、さらに西方の活火山・由布岳(標高1,583 m)の西麓から南西方向に伸びる、長さ約3.5km、幅約1.5km、標高400~500mの由布院盆地に展開している規模の大きい温泉地です。
現代的ボーリングによる温泉開発がかなり進んだ1970年代半ば頃には、活動(利用)源泉数は約560、それらから流出する1日当りの温泉水量〔自噴量と動力揚湯量の合計〕は約1万5千トン、熱量は約40MWと見積もられています[1]。その後、源泉数はさらに増加し、2013(平成25)年3月末における統計では、活動(利用)源泉数811(他に、未利用源泉82)でした [2]。
由布院の温泉水は天水起源であり、源流域は、温泉井戸の水位が高い、石松(南部)、津江・宮の原(東部)、佐土原(北東部)、および並柳(北部)の4地区(図1)と考えられます[3]。このうち温度が最も高いのは石松地区、次いで高いのは佐土原地区で(図2)[3]、その泉質はナトリウム-塩化物泉(Na-Cl泉)またはナトリウム-塩化物・炭酸水素塩泉(Na-Cl・HCO3泉)を呈しています[5]。このうち石松地区は、盆地の南縁をほぼ東西に走る由布院断層に沿っており(写真参照)、断層が温泉水の流路になっていることが推察されます[6]。
盆地中央部(湯の坪や乙丸)の代表的な泉質は単純温泉ですが、詳しくみると、多くのものが“ナトリウム-炭酸水素塩・塩化物泉(Na—HCO3・Cl泉)”の型をしています[5]。また、中央部の地下温泉水層は湖沼性の堆積層で[6]、地震探査や重力探査によって、その深さは1.8~2.0km程度と推定されています[7]。
図1.1970~71年における由布院温泉の温泉水位分布[3].
数値は基準点からの高さ(単位 m).毛羽の内側が自噴地帯.
原典は[4]. |
図2.1960~70年代における由布院温泉の地表面下150m深の地温分布(単位 ℃)[3].
原典は[1].
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写真.由布岳中腹の狭霧台からみた由布院盆地.奥が西方.
由布院断層:盆地底と左方(南)の斜面が交差する線(石松地区).
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【明治時代までの由布院温泉[8]】
由布院盆地には、縄文時代から人々が住み着いていました。それ以前から、盆地のあちこちに温泉が自然に湧いていたと思われますが、そうした記録は残っていないようです。
民間の伝承は別として、江戸時代になってようやく、18世紀の中頃、湯の坪・乙丸・石松・山崎・光永・石武などに温泉が湧いていることが役所に報告されました。このうち、湯の坪の温泉は薬湯として評判で、湯治人も来て、将来は繁盛するだろうと書かれています。(21世紀の現在、湯の坪は由布院温泉の中心部として発展しています。)また、石武の高温温泉は、麻などを蒸すのに使われていました。しかし、他の温泉については、薬湯に成らず、湯治人も無く、住民(所之者)が行水湯に使うだけだと、ネガティブな記載がなされています。
明治時代になっても、温泉に関する状況は、江戸時代とあまり変わらなかったようです。
【最初の調査】
JR久大線が未だ開通していなかった大正11(1922)年の夏、京都帝国大学の学生であった依田和四郎(後に京都大学教授)らが、由布院温泉の自然科学的調査を行いました。初めての本格的な調査だったと思われます。その報文「由布院温泉地帯の地温分布」は、調査から15年後の昭和12(1937)年に印刷公表されましたが、その緒言には、研究の目的に加えて当時の社会的状況も述べられているので、その部分を以下に引用します[9]。
さて著者等が本測定を行った理由は、当温泉は山間に在って当時交通の便未だ備わらず、温泉地としての設備極めて不十分、従って人工の施されたもの僅少であったので、地下温度その他の状況は、人工の全然加わらなかった以前と大差ないものと推定せらるること、また当地も近い将来に鉄道開通の予定(今日は既に開通している)であったり、且又当時別府から直接電車建設の議もあった程であるから、必ず近い将来に於いて人工大いに加えられ、近代的温泉となるものと思考せられ、加えられた人工が自然の状況を如何に変化せしめるものであるかを知るに絶好の場所であり、且つ又と得難い機会であると考えられたが為である。(一部、読点を付け、仮名遣いなどを書換えた。)
上記の太字の部分では、温泉モニタリング(注1)の重要性が主張されており、先駆的な調査であったと言えます。記録された最高温度は81℃、源泉総数は95、うち自然湧出泉61、人工のもの34で、深さ30間(約54m)の掘抜き井戸もありました。大正時代には、温泉の開発が既に始まっていたのです。
(注1)大分県で行われている温泉モニタリングについては、大分県のホームページをご覧ください。
【近年の変化】
依田らの調査から28年後、太平洋戦争が終結して5年後、昭和25(1950)年の夏には山下幸三郎によって[10]、また、昭和42(1967)年の冬から夏にかけては大分県によって[11]、由布院温泉の総調査が行われました。これらをはじめとする調査によって、由布院温泉の状況と変遷さらには将来の課題が浮き上がってきました。
表1には、種類別の源泉数の変遷を比較して掲げてあります。近年、自然湧出泉はほとんど姿を消し、掘削泉では、自噴泉数が減少し、動力泉に取って代わられていること、すなわち、温泉の資源量と採取量の不調和が見て取れます。また、化学成分については、濃度の低下が検出されています[12].
表1.由布院温泉における源泉数の変遷
調査年 |
活動(利用)源泉数 |
自然湧出泉数 |
掘削・自噴泉 |
掘削・動力泉 |
1922年[9] |
95 |
61 |
34 |
0 |
1950年[10] |
201 |
66 |
129 |
6 |
1967年[11] |
309 |
37 |
264 |
8 |
1974年[1] |
558
(他に未利用172) |
25 |
202 |
331 |
2013年[2] |
811
(他に未利用82) |
記載無し |
183(注2) |
628 |
(注2):若干の自然湧出泉が含まれているかもしれない。
(
由佐悠紀)