父が殺されたとき湯治にでかけていたという記述
日本ではどんな偉い人もお風呂に入るわけですが、キリシタン大名として有名になった大友義鎮(よししげ)(のちの宗麟)は浜脇温泉で湯治したりしていたらしいのです。そのことが書かれているのは『大友興廃記(おおともこうはいき)』という本です。
時は1550年(天文19年)2月10日。大友総領家最後の内紛と言われる『二階崩れの変』が起きました。『大友興廃記』にはこの事件に至るまでの父親義鑑(よしあき)と嫡男義鎮の相克が描かれています。若い日の義鎮が「御行儀あらく」気に入らない者があると「御成敗仰せつけられ」、気に入った家臣は四人のおべっか使いのイエスマンばかり。父親はこのありさまを嘆き、家督を幼い異母弟に譲ろうと考えます。そこに義鎮のおべっか家臣四人が悪だくみをしているとの知らせが入り、二人を殺し、あとの二人も殺そうとします。(戦国時代はイッキに殺しますね。)自分たちの命が狙われているとの情報を受けた残る二人は逆に御殿に忍び入り義鑑を殺してしまうのです。つまり息子の家臣が父親を殺した。そのとき息子の義鎮は
「べうと云う所にて御湯治あそばされしが」となっています。「べう」は「べふ」の間違いだろうと言われ大友宗麟が湯治していた温泉は別府の浜脇温泉だと言われています。というのも別府市浜脇には大友氏の゛浜脇館゛があったと言い伝えられているからです。別府の人は゛浜脇館゛と言わず゛大友館゛と呼んでいます。
冷麺で有名なキリン亭の女将さんに聞くと「大友館は浜脇中学の敷地にあったんです。それを書いた石が校庭にありましたが、講堂をつくるとき除けられました」と、さすが浜脇中学の卒業生は詳しい!
浜脇高等温泉
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どんなお風呂でどんな泉質?
では大友宗麟が入ったらしい浜脇温泉の泉質はどういうものだったのでしょうか。
明治38年に国の鉱山監督官松田繁という人が『別府町・濱脇町 鉱泉ニ関スル取調書類』を残しています。由佐悠紀先生から資料提供していただきました。これによると、まず「温泉のかたち」が想像できます。というのは、古来は゛堀(ほり)湯(ゆ)゛といって温泉が湧く土地を掘ってそこに湯船をつくり、底から湧く湯に入った、となっています。掘削をしはじめたのは明治25年から流行りだした゛穿(うがち)湯(ゆ)゛で、これは機械を使って温泉の穴を掘り温泉を湧出させて、そのお湯を別な場所の湯槽に引湯した、つまり今の形のはじまりだったと言えます。
ということで大友宗麟が入ったのは自然湧出を利用した堀湯だったと想像されます。
そして泉質は松田調査書の「濱脇温泉」のところを見ると「炭酸性食塩泉」となっています。
濱脇温泉には「東温泉」「西温泉」の二つがあると記されていますが、由佐先生によるとどちらも浜脇高等温泉があった位置でほぼ間違いないということです。
浜脇高等温泉
昭和3年、浜脇の中心地に建築された鉄筋コンクリート造りの温泉施設。「日本のどこにもないヨーロッパ風の浜脇高等温泉」と新聞に書かれた。昭和63年、昭和の終わりとともに惜しまれつつ解体された。
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