別府八湯の中の、鉄輪温泉の名物が『地獄蒸し料理』です。野菜や魚介類などを噴気で蒸すと、独特の柔らかさを持った美味しい味わいになります。
サツマイモ、卵、トウモロコシ、ごぼう、エビ、カニ、貝、いろんな食材を蒸し、最近では名物豚まん本舗もできています。
豚まんを蒸す地獄窯 |
地獄蒸し料理の専門店 |
この地獄蒸し料理が実は江戸時代からあった、ということが絵になって記録されているのです。
今井地獄で地獄蒸しをする村人
(大分県立歴史博物館所蔵) |
鶴見七湯廼記
それは『鶴見七湯廼記(つるみしちとうのき)』といい、鶴見地区の各温泉の特徴を絵と文でつづったものです。
その中の『今井の湯』は「この地獄ではいつも里人の食物を蒸している」とあります。村人の地獄蒸しはワイルドな方法です。地獄の噴気が出ているところを凹状にしてワラムシロを敷き、水を打って、その上に餅や芋や赤飯などなんでも並べ、上からまたワラムシロをかぶせて蒸すのです。観光施設の照湯では地獄蒸しのお菓子が売られていました。
<京のお菓子師が大喜び>
長崎に行った帰りという京都の菓子師がこの地獄で蒸した椿餅を食べて大層よろこび、これは名にし負う加茂川の水でつくった菓子に勝るとも劣らないと、家にたくさん買って帰ったそうです。
照湯全景(大分県立歴史博物館所蔵)
江戸時代の照湯の石垣
(大分県立歴史博物館所蔵)
現在の照湯周辺の石垣
照湯跡地
『鶴見七湯廼記』に記録された
えんま様も再現されている。
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<森藩のドル箱>
ところでこんな絵と文の記録、いったい誰が?何のために?つくったのでしょうか。
答えは『この地を持っていた殿さまが』『温泉施設をオープンさせた記念に』つくったらしいのです。
鶴見山の麓の温泉地帯を持っていたのは森藩(久留島氏)でした。この地域の明礬温泉では染色や皮のなめしに欠かせない明礬が採れ、森藩の貴重な財源になっていました。実際の製造を行っていたのは脇屋儀助という庄屋で、幕府領の野田と森藩領の鶴見で明礬製造をし、両方に冥加金を納めていたわけです。ところが、一時は日本の70%を超えるシェアを持つ独占企業になっていた脇屋家も天保の改革で一気に力を失います。天保の改革が独占権を奪ったからでした。
1841~43年に行われた天保の改革。独占権を失くした脇屋家は凋落し、明礬製造は幕府領のものも森藩の預かりになりました。
それまでも明礬の製造は藩の重要な財源でしたが、天領のものまでそっくり森藩の支配に!
それでうれしくなったから、というのは庶民の下司のカングリかもしれませんが、天保の改革と同じ1841年に森藩は『照湯(てるゆ)』という大型観光温泉施設を建設しはじめ、翌42年に完成させています。
茶屋や遊女街まで備えた、今で言えば観光温泉保養ランドの『照湯』が完成するとさっそく、殿さまがこのあたりの温泉地の魅力・珍しい行事などを記録し宣伝するため絵と文を家臣の江川吉貞、伊島重枝に命じます。そして3年後に完成したのが『鶴見七湯廼記』なわけなのです。
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