派手な日曜日
2016年11月20日。日曜日。たぶん朝5時頃だったと思う。つむっている瞼に布のような光がふわりと当てられたと思ったら、ごろごろと遠雷が空をゆるがして、やがて乾いた炸裂音が響きわたった。日田市で落雷~大分県中部に響きわたる雷鳴のシンバル・・ドッシャーン!こうして、地獄ハイキングの朝は十分すぎるほど派手にはじまったのだった。
13時30分、朝見神社の駐車場に集合。
この日は温泉マイスターの地獄ハイキングなので、あのむつかしい試験をパスしてマイスターになった人たちが4人。それに事務局の杉本恵子さんと私が加わって計6人が参加した。
朝見神社の駐車場からタクシー2台に分乗して竹村恵二教授が待つ乙原の駐車場へ。「この道が通れるようになったんです」と運転手さんがニュースのように言う。熊本地震のとき別府も相当な被害を受けて朝見神社の裏から乙原へのぼる道は土砂崩れのため長らく通行止めになっていたのだそうだ。
鉄平石さんは正式なお名前を輝石安山岩(きせきあんざんがん)という
乙原の滝へ向かう山道は左が谷になっていて生い茂る木々の下から渓流の音が聞こえ、右側の斜面は霧島の原生林に似た岩の多い雑木の林がつづく。細い山道にはコンクリートが張られているがその上に落ち葉や腐葉土が散り敷いていて滑りやすい。「長靴、正解やったねー」とマイスターの河野さんが私の長靴を見て言う。河野さんが用意した雨傘は雨が降らなかったのでステッキになっている。
「はい、“別府石“には2種類あります」と先頭の竹村先生が立ち止まった。“別府石”というと公園の石垣とか料亭の庭を豪華に見せている大きな角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)を想い浮かべる人が多いと思うけれど、“別府石”には2種類あって、この輝石安山岩(きせきあんざんがん)も“別府石”なのだと説明される。竹村先生が指さしているのは平らな厚い板のように石積みされている石垣で、この積み方は乙原独特なのだと石垣に詳しい人に聞いたことがある。この石を建築に使うとき通称「鉄平石」と呼ぶのだという。え、うちの風呂場の床になっている鉄平石は正式なお名前を輝石安山岩というのか、となにやら鉄平石さんが偉く見えはじめた。
乙原の滝へ行く山道の途中にある輝石安山岩の石垣。
撮影者・若松君子さん
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地質図のプレゼント
そして鉄平石さんの偉さは次の説明でますます確定的になったのだ。
竹村先生から参加者に配られたカラフルな地質図には『別府は 火山活動の産物でできている』というタイトルがついていた。別府は60万年前の由布川火砕流でできた地質が一番下にあって、この乙原地区はその上に30~40万年前の乙原溶岩がかぶさってできている。ということは、鉄平石さんの年齢は30~40万年ということになるらしい。え~ッ・・・!
カッカッカッと、音がして竹村先生がリュックから出したハンマーで輝石安山岩を欠き、石の断面を見せてくれた。輝石というガラス質の鉱物が小さな光るてんてんで入っている。
この石のかけらは記念にいただいて帰った。神棚に置いたらそのうちご神体になるかもしれない。なにしろ30~40万歳なのだから。
別府は火山活動の産物で出来ている -竹村1994,編集-
竹村先生がカッカッと欠いてみせてくれた輝石安山岩(きせきあんざんがん)の断面
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乙原の滝は美しく落ちておりました
乙原の滝は高さ60メートルとされる瀑布。今はほとんど人が訪れていない山の中にひっそりと、ゆたかに水しぶきをあげながら落ちていた。上の方は黄色に色づいた欅やモミジの枝越しに見えるのが美しい。
この滝から流れる水をすぐ下の乙原ダムに貯めて朝見浄水場から町内に配水するというのが大正6年に完成した別府町の上水道の設計だったらしい。乙原ダムの水は、今も大切な水源として生きていて、例えば台風などで浄水場の水が濁ったときなどに、この水が活躍しているのだそうだ。
さて、帰りは朝見神社駐車場までの道を歩く。坂道を下りながらのテーマは近代の話になった。
乙原の山には金の富鉱が眠っていて、木村金山別府出張所が大正12年に掘りはじめたのだが、熱湯が噴き出したのと、地域の人々の反対で中止し、その後、金山技術者の山崎権市がケーブル遊園地を作ったといわれている。だから今も黄金は眠ったままだとか。
「ケーブル遊園地ができてから乙原に人が住みはじめたんですかね」福岡県人の竹村先生から別府人への質問があった。いや、少なくとも江戸時代から人が住んでいたようですよ、と答える。乙原の墓地を調べた人によると江戸期の石造物があったと言っていましたから。
乙原の滝の手前で、参加者の記念撮影
撮影者・杉本恵子さん
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鮎返し(あゆがえし)ダムは進駐軍の歴史
朝見浄水場の近くにくると右上のフェンスに鮎返しダムへの入り口が見えた。(この名前は地元の人たちは鮎返りダムと呼んでいるようだ。もともとの川の名前が鮎返り川だったから?)
鮎返しダムは、昭和20年の敗戦後、進駐軍が別府市にキャンプ・チッカマウガを建設したとき、米軍キャンプに給水するため造られたダムだという。
ここからわたくしの無駄話。敗戦の翌年くらいから、アメリカの兵隊たちがぞくぞくと入ってくるのを地元民はおそるおそる遠巻きに見ていた。古着を着て飢えていた日本人の目には、真新しい服を着た彼らはみな金持ちの異世界の人間に見えた。そのうち、金を稼ぎたいねえちゃんたちがパンパンになって紅い口紅を塗った。キャンプで働く日本人から、アメ公はご馳走をいっぱい食うのにクソは驚くほど小さい、というような話が伝わってきた。野戦訓練地のトイレを掃除していた日本人労働者の話だったと思う。
何もかも占領軍が決定して、戦争に負けた国には何一つ決める権利がなかった。
別府市が水道水に使っていた鮎返し川の水源を米軍キャンプに取られたのもその一つで、別府市はしかたなく大分川の水に頼るようになったそうだ。今でも水源の主力は大分県企業局が水力発電したあとの水だが、鮎返しダムの水も発電所の点検のときや台風で水が濁ったときは放流されて水道水になるという。
朝見浄水場は、大正時代に造られた『集合井室(しゅうごうせいしつ)』とか『配水池』そして『量水室』というハイカラな建築物を今も残している。大分県初の近代的浄水処理施設を完成させた大正6年当時の沸き立つような誇らしさが感じられる美しい建物だ。
ちなみにお隣の大分市は浄水場の建設が別府より10年遅れて昭和2年になっている。大分市史に面白い話が載っていた。どうしても上水道を作らねばという民意が高まり調査が進んだとき、ちょうど別府温泉に大阪市の元水道部長沢井準一という技術者が湯治にきているのをキャッチ、講演をしてもらい、ついには大分市の水道顧問になってもらったという。温泉は人脈を引き寄せます。
登録有形文化財の集合井室(しゅうごうせいしつ)
集合井室の中。往時はここに浄化された水を溜めた
配水池
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この建物二つも登録有形文化財。コンクリートに大理石の粒をまぜ、生乾きのとき水で洗って石の粒を見せた”洗い出し”技法の外壁だそうで、お若い頃はさぞ美しかったでしょう、と言いたくなる大正美人ふう
旅の終わりはぜんざいで
朝見神社の駐車場に着いて地獄ハイキングは解散のあいさつ。
ところで、朝見神社の手水は山肌に湧く有名な名水で、萬太郎清水と名付けられている。
境内に茶房萬太郎があってこの清水を使ったコーヒーやぜんざいが・・。「あ、ぜんざい食べましょう」。
このコースの魅力の一つは3、40万年の旅を終えて現実に戻ってきたら、ぜんざいを食べられることかもしれない。
ぜんざい450円。茶房萬太郎、火曜水曜はお休みですって。
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