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2025年3月3日更新

第12回
貴船城が生まれたいきさつ

貴船城の持ち主、樽谷壽生氏聞き書き

 別府市鉄輪の大観山の上に貴船城というお城が立っています。風景の中でいつも何気なく見上げているお城なのに、正確な由来は知られていません。博物館では持ち主の樽谷寿生氏にその歴史をお聞きしました。

敗戦後にはじめた移動動物園

 貴船城は昭和32年の建築ですから、もう六十年は超えていますね。
 別府市では、五十年経った建築物を申請すると歴史的建造物に指定されるんですよ。ちょうど、貴船城と前後してテレビ塔(別府タワー)ができたのですが、あそこは歴史的建造物に指定されていますね。しかし、うちはその申請をしなかったのです。なぜかというと、建物に手を入れたり壊したりするとき自由がきかないだろう、と思ったからです。

 父は樽谷鹿太郎といって、明治24年1月6日生まれです。
 本人は愛知県の岡崎の出身だと言っていましたが、よく調べたら渥美半島の突端の伊良湖岬、有名な ♪名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ、という島崎藤村の歌がありますね、あの歌のもとになったヤシの実を柳田國男が海岸で見つけた場所、あのあたりの出身なんですね。
 鹿太郎は、戦前からいろいろな仕事をしているのですが、その中でかなりの成功を収めたのは戦後の移動動物園でした。戦争中に、公共動物園の動物はエサがなかったり、空襲を受けたりで、やむを得ず薬殺されたりしましたから、戦争が終わったころ日本中の動物園に動物がほとんどいなくなっていたんです。鹿太郎はそこに着目して、戦後いち早く動物を輸入し、『世界動物博覧会』という名前の移動動物園を作って全国を回ったわけですよ。それは、かなり大きな規模になっていました。JR(当時の国鉄)の貨車に動物を乗せて移動するのですが、私の記憶でも30何輌くらい使っていましたからね。

世界動物博覧会の象に乗ってパレードする子どもたち。昭和28年 福島県福島市
世界動物博覧会の象に乗ってパレードする子どもたち。昭和28年 福島県福島市


大観山の木で砦(とりで)造りのお城を建設

 ところが昭和30年代に入ると、ようやく日本経済が少しずつ立ち直りを見せはじめて、全国の公共施設の動物園も復活してきたわけです。それで移動動物園の事業もこのままで行けば経営が厳しくなるということで、どこかに委託するか、売却するか、その方法を考えたのですが、最終的には、熱海市と別府市に分けて預けることにしました。当時は暖房がありませんでしたから、温泉地であれば温かくて動物も冬を越せるだろうと考えたわけです。熱海市からは熱海城の下の土地を借りて、そこにかなりの動物を収容し、もう半分は別府温泉の地獄組合がラクテンチを運営していたのでラクテンチに動物を入れて、あとは、うちが所有することになった山地獄に動物を入れたんですね。
 ところが、熱海市の方は「温泉もあります。噴気もあります」と言って誘致したわりには適切な温度管理をしなかったらしく、預けた動物を一冬の寒さで半分くらい死なせてしまいました。それで提訴して四、五年くらい裁判で争ったんですが、自治体というのは立場が強いために、最終的にはうちが負けて大きな損害を被りました。 一方、別府温泉に預けた動物はほとんど無事だったんです。

 そういうことで、二、三年くらいのタイムラグはあったと思いますが、樽谷鹿太郎は別府市に拠点を置くことにして、山地獄と、いま「大観山」と呼ばれている一帯の土地を手に入れたわけです。その当時、大観山は通称「日の丸荘」と呼ばれていました。「日の丸荘」といってもそれらしい建物があるわけではなく、起伏のきつい山ばかり。その一番高いところに『八紘一宇』の大きな石碑が建っていましたね。
 のちに県立羽室台高校が建てられたあたりには、鎮西八郎為朝の山城の伝説がのこされていて、十二人のお妃とともにここに住んでいたとか、まことしやかなお話が語り伝えられていたり、弓掛の松などゆかりの名前もあったので、父は羽室台の並びの峯に城を建てることを思いついたのだと思います。

 ご存じのように別府は鶴見降ろしの風が強いから、大観山には、亀川地区の防風林として松がたくさん植えられていました。父は防風林の松に目を付けて、製材所を作り、赤松や黒松を製材して、この土地の木で貴船城を造ったわけです。瓦は佐賀関の神崎瓦を使い、壁はワラを刻み込んだ赤土ですから、材料は全て、今で言う地産地消ですよ。父は「砦造(とりでづく)り」と名乗りましたが、たしかに戦国時代の山城の造り方もおそらく、貴船城のように材料は現地調達だっただろう、と思いますね。秀吉の一夜城もそうでしょう。城というより砦なんですよね。
 貴船城の資材は現地調達、建築の方法も今みたいにクレーンが使えるわけではないし、山道を人力で運んで、途中で木材が折れてしまったり、いろいろ苦労をしたようです。 砦造りの貴船城は昭和32年に完成しています。



イトーピアの誕生

 私は大学を卒業した昭和40年4月に東京から別府へきて、まず、二つの仕事を手がけました。一つは、大観山の土地の大半を伊藤忠不動産(イトーピアハウス)に売却することでした。
 当時、あの土地のどまん中に九電の高圧線の鉄塔が立っていたのですが、鉄塔といっても鉄じゃなくて木造でした。5mくらいある木造の鳥居のような柱がずーっと立っていて、その上を動力線が走っていたのです。そのため土地の所有者が何もできなくて放置してきたような状態だったと思います。この高圧線をどうにかしてくれませんか、と九電に掛け合ったら、大観山の土地の一番端っこに鉄塔を移してくれました。現在立っている鉄塔がそれです。これでようやく、宅地開発ができるようになったわけです。

 もう一つは自宅の売却です。大観山の土地を伊藤忠不動産に売るという仕事と同時に、東京の自宅の売却もしました。
 自宅は東京の目白にあって、(田中角栄さんのお屋敷も近いところにありました)
 700坪の敷地に住居と大きな蔵を持っていましたから、かなりの高額で売れましたが、その金が手許に残ったわけではなく、要するに今までの父の事業の総清算、借金の整理に使ってしまいました。
 目白の自宅の大きな蔵にあった美術品などは、貴船城に持ってきて展示しています。

社会福祉法人大観苑

 私の思いとしては、このまま静かに生きて死んでいくのを良しとしていたのですが、世の中に何か貢献しなさい、というご意見もあり、2000坪の土地を社会福祉法人に寄付して、社会福祉法人大観苑という有料老人ホームを設立しました。
 温泉は、湯口があって出ていたのですが、だんだん湯量が減ったので、今は山地獄から引湯しています。



執筆者三浦祥子)

 
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