この字は何と読むの?
2017年 4月22日、土曜日、午後1時半。
亀川駅の北口に集合したのは、竹村先生、マイスターの河野さん、甲斐さん、若松さん。それに事務局の杉本恵子さんと私の計6人だった。
「この地名は何と読むでしょう?」一通りのコース説明のあとみんなが読めないのを予期した嬉しそうな顔で竹村先生が『釿掛川』という文字を示された。・・・むむむ、竹村先生を喜ばせてはいけないのだけれど読めない。
その読めない地名のところまで今日は歩いて行こうというミステリーツアーとなった。しかし、この設問が後日“びっくり箱”となって面白いものが次々に飛び出してくるとは、このとき誰も予想しなかったのである。
海抜1mの表示 |
日豊線の線路沿いを北へ歩いて行くと、やがて道は崖にぶつかって左へ曲がり、線路の方はトンネルへ入って行くので道と線路はここでお別れ。住宅地の電柱に海抜1.9mとある。「住宅地で海抜1.9mというのは極めてめずらしい」と竹村先生。もし津波がきたら西念寺への坂を上って避難すること。車イスにとっては急坂だけど誰かに押してもらって上がること。これが、このあたりの賢明で確実な津波の避難方法だという。
この坂がけっこうキツイ |
火砕流起源とは?
西念寺の東側の坂道を上ってスパランド豊海へと向かう。
『崖は凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)からなり、火砕流起源と考えられます』とガイドブックに書かれているのを見て、若松君子さんが質問した。
「溶岩と火砕流とはどう違うんですか?」
若松さんの名刺の裏にはNational Licensed English Tour Guideと書いてある。もうじき英語で地獄ハイキングのガイドなんかなさるのかもしれない。すごいね!
竹村先生。「噴火したとき溶岩だとガスを含んで、そこで固まりますね。それがちょっと壊れて沢筋に流れてきたものが火砕流です。」
「するとガスを含んでいなくて岩石が割れて壊れたりしているのが火砕流起源の崖と・・」
「そうそうそう・・」パチパチパチ拍手。「溶岩と火砕流は基本的には同じもの。だけど土石流は雨が降ったりして水を巻きこんで流れ落ちた、違うものです。」
初夏のように光が白く明るい暑い日なので、汗をかきながら丘陵のてっぺんのスパランド豊海にたどり着く。公園で遊んでいた子どもたちがオッちゃんとオバちゃんの群れに興味を持って追っかけてきた。何してるの~?
子どもたちに説明中の河野さん |
しんがりにいて子どもたちに捕まった元県庁職員の河野さんが「このへんの土地のことを勉強しよるんよ」と地獄ハイキングのガイドブックを見せる。私が面白がって「あの先頭の人は京都大学の先生だけど、京都大学へ行く気ありますか~?」と質問すると年長の子がちょっと考えてから「まだ先のことだから、わかりません」と答えた。はいはい。
スパランド豊海の公園
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スパランド豊海から内竃へ向かって坂道を下りて行く。
「これは阿蘇溶結凝灰岩です」。石垣の石の一つが黒地に灰色の矢絣(やがすり)模様みたいになっている。昔は阿蘇溶岩という呼び方をしていたものだそうだ。「火砕流が100mも200mも溜まると熱いじゃないですか」その熱で丸い軽石がひしゃげて平らになったのが矢絣模様のように見える灰色部分だということだ。
「私の実家は大分市の宮崎ですが、子どもの頃、うちの裏山で石切りをして馬が石を引いていましたよ」と今は薬品会社で動物の薬品を扱う専門家になっている甲斐さんが話す。「あ、あそこはもう少し硬い。強溶結ですね」と竹村先生が即答する。竹村先生って人の家の裏山の石までご存じなの?
阿蘇溶結凝灰岩。黒地の中に入っている灰色の絣模様は丸い軽石が熱で押しつぶされたんだって!
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釿掛川をめぐる長談義
内竃温泉へ着く。温泉の横に立っていた古い石碑が、ピカピカの黒御影に変わっていた。
内竃温泉から三叉路を山の方へ上って行くと、山沿いの道の下にはみずみずしい綠の田畑や小さな集落が見え、そのまた下に海の青が見え隠れする。
やがて危険表示の看板が何枚も立っている場所へ。
その1枚が『土石流危険渓流』とあって『水系 釿掛川』。いよいよ本日のミステリー釿掛の登場だった。
「これは、ちょうのかけ、と読みます。地元の人はちょんのかけと呼ぶそうです。“ちょうな”という大工道具に由来する名前らしいですね」と竹村解説。
では釿掛川はどこかと探すと山からちょろちょろ流れる溝のような流れが、どうやら道の下をくぐって海へとつながっているようだ。川と言っても小さいなぁ、と参加メンバーが口々に言った。鮎の漁法にチョン掛けというのがあって、語感はよく似ているけれどとても鮎が上れる川ではないわ。
「それがあなたたち文明に侵された人間の悲しいところですね」と後日、電話で話を聞いた藤田洋三さん(写真家。『鏝絵放浪記』『世間遺産』などの著者)が言った。
「別府には隠れた川があって、ふだんは水深が10㎝くらいだけど、6月に大雨が降ると水深が30㎝にもなって、それを待っていた鮎が海から川をさかのぼって行くんです。釿掛川も鮎がさかのぼりますよ。夜になると上流の浅瀬でタヌキが待っていて鮎を捕ります。6月はタヌキにとって鮎が捕れ放題のマルショクの特売日なんです。」
で、藤田洋三説によると、釿(ちょうな=手斧)は、船大工(=宮大工)が使う特別な道具であった、と。宮大工が造る宮社の神事には鮎を素干しした神饌が欠かせなかった、と鮎でつながってくる。「釿を叩く工人を宮鍛冶といいました」「釿の柄はエンジュの木で造ります」と詳しい講義をえんえんと受けて電話を終え、通話時間を見たら1時間07分38秒だった。
藤田電話の翌日、電子印刷センターで偶然紹介された西念寺のご住職に釿掛川の件をお尋ねすると「あゝ、ちょうのかけですね。檀家さんの話では以前、大分のテレビ局が“読めない地名”の取材にきて、たまたま尋ねた家が大工さんだったので、釿(ちょうな)はこれ、と実物の道具を見せて、これを壁にこうやって掛けるんよ、と説明したらしいんです」と面白い話を聞かせていただいた。
ご住職によると、釿掛川の看板があるところの崖下には昔の地名で船頭村があり、現在の地名だと内竃6組から7組にかけての地域になる、と。そこが船頭村であった頃はすぐ近くまで海があったんですよ、と仰る。びっくり箱のフタが何回も開いた感じ。
船頭村があって格の高い船大工がいて、釿を壁にかけていて、『釿掛川』と。船大工の「釿」は「ちょうな」と読むのだけれど、「ちょうな掛け」が「ちょうの掛け」と訛った。さらに「ちょんの掛け」と訛った。・・というのが正統的由来説だ。
もう一つ、裏版も考えてみた。鮎がそれほど捕れたのなら「チョン掛け」という漁法が川の名前になっていた可能性もある。この地は幕府領なので、お役人が地誌を記すとき「チョン掛け川では卑俗に過ぎる。ひとつ拙者が・・」なんて考えて勝手に「釿掛」という漢字を当てたのかもしれない。漢文の得意なお役人のひそかなる楽しみだったりして・・。
角閃石安山岩。ここで竹村先生の有名なハンマーが登場
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竃八幡宮のにぎわい
本日のミステリーツアーは、道の右手に角閃石安山岩(高平山火山岩)を確認してから国道へ下りて血の池地獄へと向かい、そこで解散した。
この先の亀山に八幡竃門神社があるが、往時の行幸は大変な賑わいで、神輿三基が練り、大がかりな武者行列が亀川駅北側の御旅所まで進む華麗なるパレードだったという。その頃、カマド地獄は血の池地獄の近くにあったのだけれど、八幡竃門神社の華麗なる行幸が行なわれなくなった頃に、海地獄の方へ移転したという話だ。
八幡竃門神社はもと竃八幡宮と称され、宇佐神宮とのつながりが深く、大友時代には末寺が六つもあったと記録されている。
バスを待っていたタレント風な旅人のお兄ちゃんにお願いして記念撮影。
河野さんはこのあと長泉寺の温泉へ。暑かったですね~
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別府は火山活動の産物で出来ている -竹村1994,編集-
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