〔温泉地の地質学的・地理学的研究-明治中期から大正時代〕
1886(明治19)年の日本鉱泉誌の出版以降も、内務省は全国の鉱泉の分析を継続し、それらの結果を集計した分析表を数度にわたって公表しています。そして、1915(大正4)年には、ドレスデン(ドイツ)とセントルイス(アメリカ)で開催された万国博覧会に、それぞれドイツ語と英語に翻訳した日本鉱泉誌を出展して、広く世界各国に紹介しました。
「パナマ-太平洋万国博覧会(The Panama-Pacific International Exposition)」と銘打たれたセントルイスの博覧会に出展された鉱泉誌(The Mineral Springs of Japan)には、多数の分析表や温泉地の紹介に加えて、日本列島の鉱泉分布図が掲載されています。付図はそのコピーです。コピーの状態は悪いのですが、内容の概略は窺えるのではないでしょうか。
この図で注目されるのは、赤い曲線で火山帯が描き込まれていることです。すなわち、この頃には、千島列島~日本列島~南西諸島と弓なりに連なる島々(注2)、および大陸の日本海沿岸域の地質や地理の詳しい調査が行われ、火山と温泉の密接な関係が近代的な意味で認識されていたものと思われます。描かれている火山帯の大略は、現在の火山フロントに通じるものがあります。
当時、火山や温泉に関する地球科学的な調査研究の成果は、地学雑誌・地質学雑誌・地質調査所報告などに発表されました(注3)。付図は、それらを取りまとめて描かれたものと推察されます。
そのようなとき、1921(大正10)年、京都帝国大学(現:京都大学)理学部に地質学科が設置され、地質学研究の新しい展開が図られました。その具体的行動が「雑誌『地球』(月刊)」の刊行で、第1巻は1924(大正13)年に発刊されました。第2巻は「温泉号」とされ、これに全国各地で調査された温泉分布の様相・特徴などが記載されました。それらから、たとえば、温泉は低地部に多いことが認識されるようになりました。また、温泉の分布と地質学的な構造線が対応することも具体的に記述されています。これらは、後世の温泉研究の基礎となりました。
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図:日本における鉱泉と火山の分布,Ishizu (1915).
黒点:鉱泉,赤い点:活火山,赤い線:火山帯,
黒い線:第三紀(注1)の構造線. |
(注1)第三紀
地質年代の一つで、およそ6600万年前から260万年前までの時代。この後が第四紀で、私たちが生きている時代になります。
(注2)弓なりに連なる島々
このような島々は、その分布の地理的特徴から「弧状列島」と呼ばれます。プレートテクトニクスにおける沈み込み帯に当り、近年は「島弧(とうこ)」と呼ばれることが多いようです。
「千島列島~日本列島~南西諸島」は地球上の代表的な島弧ですが、花綵(はなづな)のように島々が弧を描いて連なっていることから、「花綵列島(かさいれっとう)」という優雅な名前で呼ばれることもあります。
(注3)雑誌について
地学雑誌;東京地学協会(1879年設立)の機関誌,地理学分野.
地質学雑誌;日本地質学会(1893年設立)の機関誌,地質学分野.
地質調査所報告;地質調査所(1882年設立)の機関誌の一つ,地質学分野.
地質調査所は改組されて、平成13年4月より「産業技術総合研究所」に組み込まれ、地質調査に関する業務は「地質調査総合センター」に引き継がれています。
(
由佐悠紀)
R. Ishizu (1915):「The Mineral Springs of Japan for THE PANAMA-PACIFIC INTERNATIONAL EXPOSITION」(著者:石津利作)
福富孝治(1936):「温泉の物理」,岩波書店.
服部安蔵(1959):「温泉の指針」,廣川書店.