〔別府温泉での研究-昭和10年代から40年代まで〕
【海岸地域の地下水理学】
(不圧地下水や被圧地下水などの述語は、別府温泉事典の地下水を参照して下さい。)
その2:太平洋戦争終戦以後
昭和20(1945)年8月15日の終戦によって、日本は新たな道を歩むことになりました。大学の機構も変わりましたが、別府の研究所は存続し、新進気鋭の研究者たちが現われました。そのひとりが、後に教授となった吉川恭三(きっかわ きょうぞう:1924-1998)です。
吉川(1955,1956,1964)は、海岸地域における地下水の研究を進めるに当り、水平で厚さが一様な被圧帯水層の弾性モデルを改良して、別府温泉などで観測されていた一連の現象を解析しました。専門的ですが、吉川の研究の真骨頂なので、そのモデル(方程式)を紹介します。
S・∂(h-qp)/ ∂t = T・∂2h/∂x2-bh
各項の意味は、下記のとおりです(預金通帳とよく似ています)。
左辺:帯水層の単位幅,単位長さの範囲に存在する水量の時間変化(残高の増減),
右辺第1項:同じ範囲における水平流の流入量と流出量の差(預金額と引出額の差),
右辺第2項:同じ範囲における帯水層からの漏出量(利息:ただしマイナス).
記号の意味は一括して下の枠内に記しました。
h 地下水位,p 帯水層に掛かっている荷重,t 時間,x 水平座標,∂ 偏微分記号.
S 貯留係数:帯水層の骨組みと水の弾性(圧縮性)に起因する「水を貯める能力」
潮汐係数:貯留係数のうち帯水層の骨組みが受け持つ割合
T 透水量係数:「水の流れやすさ」を表す帯水層の特性
b 浸出係数:帯水層からの「水の漏出」を表す係数
(1-気圧係数:貯留係数のうち水が受け持つ割合)
水の圧縮性について
流体力学では、多くの場合、水は圧縮されないもの(非圧縮性流体)として取り扱われるが、被圧帯水層の力学では無視できない。
****************************************
定数の詳しい内容:(吉川は圧縮率の代わりにヤング率を用いている。)
S =
gD(nκ
w + κ
b),
= κ
b/(nκ
w + κ
b),T = KD.
水の密度,g 重力加速度,D 帯水層の厚さ,n 帯水層の空隙率,K 帯水層の透水係数,
κ
w 水の圧縮率,κ
b 帯水層の骨組みの圧縮率.
このモデルを用いて、吉川が解析した現象を以下に掲げます。
(1)地下水位の変化が潮汐より先行する現象
海岸のすぐ近くにある井戸では、井戸水位の変化が潮汐より先行するという、不思議な現象が観測されることがありました。吉川(1956)は、自身でも観測した同様の現象(図1)に上のモデルを適用して、その理由を巧みに説明しました。
図1 地下水位の変化が潮汐より先行している観測例〔(Kikkawa, 1963)より〕
場所:愛知県海部郡,観測年月:1954年10月31日~11月1日
|
(2)漏れのある帯水層で、潮位と温泉水位の位相が同じになる現象
これは別府温泉で顕著に観測された現象で、「温泉科学 第8回」と「温泉科学 第13回」に紹介されています。この研究を主導した野満隆治教授は、数多くの自噴泉が存在する状態を「帯水層からの水の漏出に相当する」と考えて、数理的に説明しました(野満,1941)。これを受けて、吉川(1955)は野満の取扱いを進展させ、浸出係数と透水量係数の比「b/T」が、この現象の特性を表す水理的パラメーターであることを明確に主張しました。図2は、野満(1941)の図(温泉科学 第13回の図1)を、吉川がアレンジしたものです。
図2 別府温泉における湧出量の潮汐影響の振幅と海岸からの距離の関係
縦軸:湧出量変化の振幅に関する量(対数目盛),横軸:海岸からの距離
|
(3)潮汐に伴う地面の昇降
海水の潮汐(海洋潮汐)が月や太陽の引力によって起こることは誰でもが知っていますが、岩石で出来ている固体地球でも潮汐現象が起こります。地球潮汐あるいは地殻潮汐と呼ばれ、これを観測することによって、地殻の剛性(硬さ)を知ろうとする研究が19世紀の末頃から盛んに行われていました。
ところが、四面を海で囲まれている日本では、海洋潮汐の影響が大きいため、地殻潮汐の観測は困難です。しかし、これを逆に利用して、海洋潮汐の影響から地殻の剛性を求めようとする試みが活発に行われました。代表的な観測方法は、「傾斜計」を用いて土地の傾きを測ることです。
それらの観測のうち、海岸に近いところでは、予想とは異なる現象が現われることがありました。代表的なものは「満潮時には地表面が内陸に向かって傾く」という現象でした。このことは、海岸近くの地面が上昇し、しかも海岸に近いほど上昇量が大きいことを意味しており、「海水位が上昇すると海岸地域に掛かる荷重が増えるから、土地は沈降するだろう」という予想とは、まったく反対の現象です。
別府温泉でも、上に述べたのと同様な現象が観測されました(西村,1942)。しかし、そのメカニズムは分からなかったのです。それから十数年が経って、吉川(1955)は、被圧帯水層の弾性的特性によるのではないかと思いつき、上の帯水層モデルを適用して、「潮が満ちると帯水層が膨らむ」ことを示しました。この種の現象に対して得られた、世界で最初の研究成果だったと思われます。
水枕の片方を押すと他方が膨らむという現象とよく似ています。
図3 別府温泉における潮汐に伴う地面の傾斜と海岸からの距離の関係
縦軸:傾斜変化の振幅に関する量(対数目盛),横軸:海岸からの距離
|
図3に示されている関係から、地下水学的パラメーター「b/T」の値が求められました。他方、温泉水位の解析(図2)からも「b/T」の値が得られています。下表に示されている2つの値はほとんど同じで、この帯水層弾性モデルの正当性を支持しているように思われます。
表 パラメーター b/T の値(単位:m-2)
湧出量の潮汐影響(図2)による値 |
2.3×10-5 |
潮汐に伴う地面傾斜(図3)による値 |
1.6×10-5 |
潮が満ちると帯水層が膨らむ理由〔定性的な説明〕
- 荷重(上方の地層や大気による)が掛かっている被圧帯水層がつぶれないのは、層の骨組みと地下水が、荷重を分け合って支えているからである。
- 海域部分では、潮が満ちるにつれて、帯水層に掛かる荷重が増加するが、その幾分かを地下水が受け持って支えるので、地下水圧が上昇する。
- 海域での水圧上昇は陸域部分の帯水層に伝わり、陸域の水圧も上昇する。
- その結果、地下水が荷重を支える割合が増すので、骨組みが支える割合は減少し、骨組み(地層)が膨張する。
(注)満ち潮に伴う荷重の増加は帯水層の骨組みを縮ませると思われるが、その効果より地下水圧上昇がもたらす膨張の効果の方が大きい。
追記(地盤沈下)
地下水圧が低下すると、帯水層の骨組みが支える荷重の割合が増えるので、地層は縮む。これが弾性の限界を超えるまで進むと、地層は壊れる。
大量の地下水を汲み上げたときに起こる地盤沈下がそうである。
気圧影響
別府の温泉井戸のような被圧井(ひあつせい;掘抜き井戸)〔別府温泉事典の地下水を参照〕の水位は、気圧が上がると低下し、気圧が下がると上昇します。これを気圧影響と言いますが、その機構も上の弾性帯水層モデルによって説明されますが、詳細は略します。
なお、気圧影響の分析で現われる「1-」は「気圧係数」と呼ばれます。
【付記】執筆者は職場の部下として、吉川恭三教授の薫陶を受けました。「吉川先生」と呼ばせていただきたいところですが、この種の文の一般的な作法にしたがって、敬称は略しました。