温泉には、さまざまな側面があります。温泉がもつ医療効果は、古くから認識され、研究されてきました(温泉医学)。また、人々の生活と関わり合って、ひとつの文化(温泉文化)が育まれて来ました。そのような過程の中で、温泉をうまく利用していくための技術が工夫されましたし(温泉工学)、利用していく上での争いごとを鎮める努力もなされました(法社会学)。
上に述べた温泉の諸側面には、その根底で、温泉の科学が関わっています。温泉を形成している水・熱・成分、そして温泉を貯めて流す地層の特性、および、温泉という現象に関わる法則などです(温泉の地球科学)。この分野の近代的研究は、「カテゴリー第2回 温泉科学事始め:ブンゼンの業績」で述べたように、1846年にブンゼンが行ったアイスランドの現地調査に始まるとされています。しかし、欧米諸国では、温泉に対する関心が医療方面に向けられていたこともあって、地球科学的研究はあまり行われなかったようです。
ところが、日本では、明治時代から、この方面に関わる研究が進められてきました。しかし、残念なことに、それらが広く知られているとは言えないように思えます。そこで、標題の内容を、数回に分けて紹介することにしました。ただし、書かれる内容は、執筆者が関心を抱いたものが中心になっていることをご了解ください。
(1)明治時代中期頃までの調査研究:温泉のカタログ作り
日本では、すでに江戸時代・天保の頃に、宇多川榕菴らが温泉の泉質に関する研究を進めていました。幕末の慶応年間には、京都で組織された錬真社という化学研究団体が、化学・薬学の講義や研究とともに、温泉分析を行っていました。
そうした背景のもと、明治維新後いち早く、新政府は1873 (明治6)年7月に文部省令を発して、全国各地の鉱泉の起源や効能などを調査し、1874(明治7)年には東京の司薬場で鉱泉分析を開始しました。これには、1871(明治4)年から1873(明治6)年にかけての岩倉使節団が欧米諸国訪問で得た近代化構想(富国強兵・殖産興業)が、大きく影響しているものと思われます。
次いで1879(明治12)年、内務省の命で各地の鉱泉が精査され、ヨーロッパの著名な鉱泉と比較されて、その結果が日本鉱泉誌として公開されました。続いて、1886(明治19)年にドイツで開催された鉱泉博覧会に、各府県の鉱泉の調査結果が出品され、それらを整理した日本鉱泉誌3巻(内務省衛生局編)が出版されました。
これが、日本最初の系統だった本格的な温泉書で、日本の温泉のカタログと言えます。その中には、鉱泉の意義・常水との区別・医治効用・利用および管理法・温泉地名・泉質などのほか、浴客数や発見年月日まで記載されています。記載されている泉質は化学成分に基づいており、単純泉・酸性泉・炭酸泉・塩類泉・硫黄泉・泉質未詳という分類が提唱されました。
(以上は主に「服部安蔵(1959):「温泉の指針」,廣川書店」による。)
(別府での温泉分析)
日本鉱泉誌が出版されて程無く、1888(明治21)年12月に、別府の鉄輪で「鉄輪蒸窖及両温泉分析並医治効用」という小冊子が出版されました。これには、鉄輪の「蒸し湯」の入り方や効能がスケッチ画とともに記載されています。その中に、両温泉、「渋ノ湯」と「熱ノ湯」の成分が記されています。ただし、数値が記されているのは固形分だけで、個々の成分は定性的な量の多少で表現されています。泉温とpHは記録されていません。
当時の温泉研究の一端が窺えるので、以下に「渋ノ湯」と「熱ノ湯」の分析結果を抜粋して掲げます(主要成分のみ)。
成分 |
渋ノ湯 |
熱ノ湯 |
現在の表記(執筆者の推測) |
固形分:1リットル中 |
3.392グラム |
0.3732グラム |
|
遊離炭酸 |
僅微 |
多量 |
遊離二酸化炭素 |
硫華水素 |
多量 |
僅微 |
遊離硫化水素 |
格魯児化合物 |
極多量 |
僅微 |
塩化物イオン |
硫酸塩類 |
多量 |
記載なし |
硫酸イオン |
珪酸塩類 |
多量 |
僅微 |
メタケイ酸 |
那篤リ母塩類 |
稍多量 |
少量 |
ナトリウムイオン |
加リ母塩類 |
稍少量 |
僅微 |
カリウムイオン |
石灰塩類 |
少量 |
僅微 |
カルシウムイオン |
苦土塩類 |
少量 |
僅微 |
マグネシウムイオン |
鉄塩類 |
多量 |
記載なし |
鉄(Ⅱ)・鉄(Ⅲ)イオン |
泉質 |
塩類性硫酸泉 |
炭酸性単純泉 |
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〔出典:川崎幾三郎(1888):鉄輪蒸窖及両温泉分析並医治効用(訂:入江秀利)〕
上の表には挙げていませんが、本文には、重炭酸類(炭酸水素イオン)は「僅微」または「痕跡」と記されていますので、pHは弱酸性だったのかもしれません。(温泉の泉質を参照)
(地球科学的研究の萌芽)
温泉のカタログ作りが進められる中、温泉地の地球科学的な調査研究が芽生えてきました。たとえば、1905(明治38)年2月、大分県知事・大久保利武の依託によって、鉱山監督官・松田繁が別府温泉と浜脇温泉を調査しましたが、別府地域の地質や火山活動を記した報告書(同年3月に提出)の内容は、この方面の研究がかなり進んでいたことを窺わせます。付図は、その報告書の表紙です。具体的な内容は、別に述べます。
(謝辞)
「鉄輪蒸窖及両温泉分析並医治効用」は、入江秀利氏と河野忠之氏に提供していただきました。松田繁氏の調査報告書は、「特定非営利活動法人別府八湯トラスト」から提供していただきました。二つの文献は、全国的に見て、極めて貴重なものです。記して、皆様に深謝申し上げます。
( 由佐悠紀)
>>松田 繁 著『別府、浜脇町鉱泉に関する取調書類』
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